信太の森
中国の古制で、王城を中心とする特別行政区を「幾内:きない」といい、奈良時代から称され始めた。当初は、「山城国」「摂津国」「河内国」「大和国」の四幾内とされ、後に「河内国」から「和泉国」が分離し五幾内となる。しかも、その中心地として国府が置かれていたのが、現在の和泉市なのである。
恋しくばたずねきてみよ和泉なる
信太の森のうらみ葛の葉 (葛の葉伝説)
「狐の子、狐の子」と蔑まれながら、阿倍野からやってきたのは、母の故郷であるこの信太の森であった。
母は葛の葉姫と言い、美しい母ではあるが、狐の化身であった。その母(狐)が追われ、傷ついて逃げてきたのを救ったのが、信太明神に参詣していた父保名(やすな)であった。
その追っ手というのが、河内の国の豪族石川のつね平(兄が芦屋道満)である。つね平は、妻の病を治すために、狐の生肝を摂りにきたのだ。つね平側は多勢であり、この争いに保名は傷ついた。その保名を救ったのが、化身となった母なのである。(古浄瑠璃『信太妻』より)
和泉なる信太の森は老にけり
千枝とは聞けど数は少なき (藤原家隆『玉吟集』)
信太の森と呼ばれているのは、聖神社を中心にした森のことである。しかし、摂津の国なら住吉大社があるのに、何故わざわざ信太の森まで来たのであろう?
和泉国の一の宮といえば大鳥大社(堺市)があるし、二の宮としては泉穴師神社(泉大津市)がある。ところがどうしても、聖神社が必要なわけがあった。保名と葛の葉姫の間に童子が生まれるわけだが、それが陰陽師安倍晴明(921-1005)である。
この陰陽師たちが暦をつ くり、解き明かすためには日々のことを知らなければならない。だからこそ聖(日知り)神社をみずからの地としなければならなかったのである。ちなみに、こ の暦を唐から伝えたのが吉備真備(695-775)である。
ここへくるのははじめてではなかった。この森が都市化の洪水波をうけて、いくたびか危機をむかえたことがあって、わたしは「信太の森を守る会」の運動に名をつらねていたからである。
わたしは説経節のなかで好きな読み本はと問われれば、『信太妻』をこたえたことも多かった。安倍晴明の母である狐の女となり、妻となり、母となる生涯の ことを考えると日本の物語作者として、この作品はまたぐことのできない重要な作品と思っていたから・・・。
(水上勉『説経節を読む』)
ここで話を元に戻すと、文学・歌舞伎などで知られる『葛の葉物語』の舞台となった場所は、実は聖神社から西、JR阪和線を横切り、北信太駅近くにある信太森葛葉稲荷神社なのである。枕草子にも挙げられた、“信太の森"であるが、ここ葛葉の森は平地にあり、まるで森の入り口のように、稲荷神社があるってわけ。
本来は穀物農業の神だが、現在は産業全般の神として信仰されている。しかも、誰もが行きやすいように、お稲荷さんが存在している感じなんよ。
葛の葉の表みせけりけさの霜 (芭蕉)
この句碑は、当地を訪れたわけではなく、芭蕉が長く江戸を離れていたとき、“嵐雪の反乱”が起こり、その詫びを入れに来たときの句である。俳聖にも、そんな人間関係を垣間見ることができるんよ。つまり、表を見せているのは、霜のいと白きものと云うわけで、裏の本音を見せているわけではないのだ。
しかし此処、和泉となると、どうしても登場してもらわねばならない女流歌人がおり、その歌碑も置かれている。
秋風はすこし吹くとも葛の葉の
うらみがほにはみへじとぞおもふ
(和泉式部)
この歌は『新古今集巻第十八雑歌下』にある返しの歌であるー「和泉式部が夫の橘道貞に忘られてのち、程なく敦道親王がかよふと聞きて遣はしける」として赤染衛門が次ぎの歌を贈っている。
うつろはでしばし信太の森を見よ かへりもぞする葛のうら風
熊野を初めて詣でた上皇は宇多法皇(867-931)で、907年のこと。それから80年ほど間をおいて、今度は花山法皇(968-1008)が992年に詣でています。しかし、どちらの熊野御幸も単発だったため、熊野信仰を盛り上げるのに役立つことはありませんでした。
ところが、1090年、白河上皇(1034~1129)が熊野を詣でます。この白河上皇がじつに9回もの熊野御幸を行います。
その後、鳥羽上皇(1103~1156)の21回、後白河上皇(1127~1192)の34回、後鳥羽上皇(1180~1239)の28回という熊野御幸を生み、さらに武士や庶民による「蟻の熊野詣」を生み出しました。
平松はまた雲深く立ちにけり
明け行く鐘はなにはあたりか 後鳥羽院『正治ニ年百首』)
この碑は、平松王子から西に下ったとある公園にあり、熊野への道に気を取られて見落としてしまうかもしれない。
府中町には、この和泉国の由来の、「和泉清水」を祭る神社が泉井上神社がある。この“府中”も、元正天皇の霊亀二年(716年)ここに和泉監を置き、やがて国府となり、地方行政の中心となったところから、地名になったのだ。
泉井上神社の境内では、和泉五社(大鳥・泉穴師・聖・積川・日根)を一箇所に勧請して祭っている。
このまま、熊野街道を駈けつづけると、府道和泉泉南線と合流する柳田橋の手前に出てくる。
ここに井ノ口王子跡があり、柳田橋を渡って府道の西側の道を行く。
この熊野街道を小栗街道と呼ばれたりする。これは説経節の『小栗判官と照手姫』の話がついてまわったのである。しかし小栗は坂東武者であった。
毒殺された小栗が、閻魔大王に“餓鬼阿弥”として返されたのは藤沢宿(神奈川県)である。熊野の湯に浸かればもとのからだになるといわれ、人々の施しを受けながら土車が引かれていく。
それじゃ当然、道の旅人とは反対側(東国)の街道を登るはずである。民間伝承とは不思議なものであるが、尊重すべき解釈も必要ではないだろうか?
をぐりの場合は十七日入れば眼があき、二七入れば耳がきこえ、三七すれば口がきけたと語る。霊験あらたかなものがあったのだろう。語りべたちがいかにも湯 に入ったかのように語るのをきいて、熊野本宮湯の峯へ五体不満足な縁者や親兄弟をもつ村人らは湯に入りたかったろうと思えた。
わたしなど、全盲だった若狭の祖母をいちど熊野の湯か柳谷観音の閼伽水(あかすい)をもらって洗眼してやると約束しながらそれを果たせなかった恨みを抱いている。
米騒動の大正時代では若狭人には熊野は遠かった。
をぐりが十七日もつかれば眼があいたのなら祖母をつれて湯の峯に来たかった。説経節は、若狭の子らに孝心をも育てるのに役立ったのである。(水上勉『説経節を読む』)
この小栗橋を渡りながら、少しばかりの孝心を抱いた道の旅人は、銭湯で親父の背中を流してみたくなった。ここで述べた『信太妻』及び『小栗判官』のほかにも、『山椒大夫』『俊徳丸』、そして浄瑠璃や謡曲などの“人買い”の話なども、説教節と繋がっているんだろうなぁ。