信達宿

 

今は昔、聖武天皇の御代に、和泉の国、日根の郡の内に一人の盗人あり。道のほとりに住して、人を殺し、人の物を盗み取るをもって業とす。因果を信ぜずして、常にもろもろの寺に行きて、ひそかに銅(あかがね)の仏の像を伺ひ求めて、これを盗みて焼きおろして、帯に造りて売りて世に渡る。  (『今昔物語集 巻第十二ノ第十三』)

 これは平安時代末期に成立したと思われる説話集である。そしてこれとほぼ同じ内容の話が、すでに平安時代初期にあった。

 

聖武天皇の御世に、その日根郡の尽恵寺(じんゑじ)の仏の像、盗人に取られき。時に路往く人有りき。寺の北の路より、馬に乗りて往く。聞けば声有りて、叫ビ泣きて曰く、「痛きかな、痛きかな」といふ。     (景戒(きょうかい)『日本霊異記 中巻 第廿ニ』)

この尽恵寺が日根郡(ひねのこおり)にあったわけである。しかし残念ながら、この寺は現存しない。ところがこれを、海会寺と見なしてよいのではないかと考えられるようになった。

現在、この海会寺跡の金堂基壇の上には、半分覆いかぶさるように一岡神社(泉南市信達)があります。この神社は創建年代等は不明ですが、伝承によれば崇峻天皇5年(592年)に厩戸皇子(聖徳太子)が海会寺を建立した際に、その鎮守の海営宮として一岡神社を定めたとされます。

 

海会寺は平安時代に火事で焼失し荒廃しましたが、熊野詣が盛んになると神社が崇敬を集めるようになり、やがて熊野九十九王子の厩戸王子社を合祀し、和泉国日根郡の大社「祇園さん」として親しまれてきました。古代史の謎がからんだ非常に興味深い由来の神社です。

 厩戸(うまやど)王子跡は、神社の西にある。“厩戸”と聞けば、聖徳太子を思い出してしまうけれど、どうやら駅(うまや)のことを意味しているらしい。

 

 次に又白拍子加はり五房・友重を以て二人舞、次に相撲三番、終わりて競ひ出で騎馬にて、先ず廓戸王子に参り、即ち宿所に馳せ入る、此の御宿は惣名は信達宿なり、此所は廓戸御所と云々、例の如く萱葺三間屋あり、國より宛行(あてがう)御所は極めて近く還りて恐れを懐く、戌の時ばかり召ありて參上し、御前に召し入れられ、二首を被講す.

                              (藤原定家『熊野御幸記』)

 

       暁初雪
いろいろのこのはのうへにちりそめて ゆきはうづますしのゝめのみち
                  山路月
 袖の霜にかげうちはらふ深山路も まだ末とほき夕づきよかな  

 

ここから信達宿(しんだちしゅく)に入っていくのだが、およそ九百年前頃より、熊野詣の人々で賑わっていました。特に市場村は白河上皇(1053年~1129年)以後、仙洞(せんとう)御所(退位した天皇の御所)が置かれたところから、当時日根郡信達荘御所村とも呼ばれていました。 後鳥羽上皇が熊野詣をされた、建仁元年(1201年)十月の、お供の歌人藤原定家の日記「後鳥羽院熊野行幸記」にも、往きの七日、帰りの二十四日、信達宿に宿泊したという一文が書かれています。 後世江戸期より信達荘(泉南市の大半)の商業の中心となり、特に毎年年末に村内の往還数丁にわたって歳の市が開かれ、正月用品の買入れに近在より人々が集まり、賑いがあって、御所村を市場村と改めた。

 

そして今、平成の花咲か爺さんが、この地を賑わしている。それが【ふじまつり】である。

この熊野街道に“ふじの花”が満開になるのだ。それも、1本の樹木から、四万有余の花房に迎えられるってわけ。

 

 むらさきの雲とやいはむ藤の花    

      野にも山にもはいぞかかれる

 

この歌は、足利義詮二代将軍が、住吉詣での途中、野田に立ち寄って詠んだと言われている。その野田とは、大阪市福島区の野田で、日本の植物学の父、牧野富太郎が命名したノダフジ発祥の地である。しかもその昔は、「吉野の桜、野田の藤、高雄の紅葉」と並び称された藤の名所なのだ。

 しかし、この歌は、信達宿の【藤まつり】のコンセプト「この藤を訪ねる人に安らぎを 去りゆく人に幸せを」にふさわしいのように思える。

 

ところがこの地にも、悲しい物語はあり、その苦しみは、今なお続いているのだ。それが、泉南地域の石綿(アスベスト)被害なのだ。

1912年(明治45年)に栄屋誠貴が栄屋石綿紡織合資会社(のちの栄屋石綿紡織所株式会社)を北信達村牧野(現・泉南市信達牧野)に設立した。それを契機として、現在の泉南市と阪南市を中心にして泉州地域には石綿紡織工場が設立され、石綿を原料とした糸や布が生産されてきた。戦前には軍需産業へ、戦後は造船・自動車・鉄鋼などの主要産業へ製品が供給された。

「泉南地域と石綿被害と市民の会」の調査では約100の工場があったことが確認されている。しかも、泉南地域の石綿被害は1937年から1940年にかけて内務省保険院の調査によって確認されており、その調査結果は「アスベスト工場に於ける石綿肺の発生状況に関する調査研究」としてまとめられていたのだ。

 

帰らぬ母に

わたしは問いかける

そこに花は咲いていますか

暗く小さな工場の中

白い塵(ちり)が舞っていましたね

粉雪のように

 

帰らぬ父と

帰らぬ夫に

わたしは問いかける

そこに陽はさしていますか

油でよごれた作業場で

働きづめの日々でしたね

子供たちのために

 

帰らぬ友に

わたしは問いかける

そこに風は吹いていますか

せわしく行き交うシャトルの音

がんばりやの織り子さんでしたね

なにも知らされずに

 

遺されたわたしは誓う もう涙は流さないと いしわたの町に生まれ いしわたの町で育ち

わたしは今顔をあげて  五月の空へ  あるきはじめる(大阪・泉南アスベスト国賠原告一同)

  

新緑を吸い込みいや増す悲しみぞ息ほしき人のあるを知るゆえ  柚岡一禎(ゆおかかずよし)

 

この碑が、ここに建立されたのは、2015年4月19日のことであり、その年の【ふじまつり】に初めて知った 道の旅人にとって衝撃的だった。つまり、その街の歴史を追いかけながら、‟息ヲホシガッテイル人”に気づかなかったことに・・・。

 

この信達牧野の最寄駅は、JR阪和線の和泉砂川駅なのだが、この砂川にも、今では地元の人でも知る人の少ない歴史があった。 関西の大手私鉄各社は戦前から、宝塚ファミリーランド(阪急)、阪神パーク(阪神)、ひらかたパーク(京阪)など、沿線開発にと挙って遊園施設を開業したが、阪和電鉄も遊園地を経営していたことがある。この駅周辺にあった砂川遊園がそれで、現在のほんみち泉南支部のあるあたりから砂川公園団地、砂川台団地一帯に広がる大遊園地であった。大花壇のほか「砂川テント村」と呼ばれるキャンプ場や貸しボートなどがあったが、砂川遊園最大の目玉だったのが「砂川奇勝」である。

熊野街道からは、ずいぶん離れた場所にある【砂川奇勝】は、200万年前の洪積期に海の底の砂や粘土が積み重なったものが隆起し丘陵となったもので、園内に高く聳えたっていた。この丘陵は雨水によって削られ変形していき、砂が流れる川のようにみえたことから、「砂川」の名がつけられ、そのまま駅名にもなったのだ。

一大行楽地であった戦前と比べて現在は規模がかなり縮小されましたが、その一部が団地内の公園に保存されており、当時の名残を垣間見ることができます。

「峙(そばだ)てるものは飛龍の形を為し、伏せるものは猛虎の蹲(うずくま)れるが如し」と評された奇勝を後に、道の旅人はこの章を終えることにした。ただ、時間があれば、長慶寺(泉南市信達市場)と林昌寺(泉南市信達岡中)には立ち寄ることをおススメする。