蟻通神社

 

 

日根の松原や是ならん。梢にかかる天雲に、有(あり)と星をばえもしらぬ。

樫の井 冬戸駒並(なめ)て、駅(うまや)にしばしやすらはん。  (中世歌謡『熊野詣』)

 

日根の松原は“日根神社のお旅所”あたりであろうか?「有りと星」とは“蟻通神社”である。
樫井王子と来て、「冬戸駒並べて、駅に」というのは“厩戸王子”である。

この熊野街道において、佐野王子は日根の入口のようにおもえる。

 

これより(歩行で)御所を指し過ぎる。昼御宿は此野鶴子とのこと。サ野王子に参る。次に籾井王子に参って、御幸を相待つ。(藤原定家『熊野道之間愚記』)

 

「‟此野鶴子”は鶴原王子のことであろうか?」はさておいて、定家の和歌がある。

 

冬の日に あられふりはへ 朝たては 

浪に浪こす さのの松原

 

と言うことは、当時の佐野の熊野古道は、浜街道であったのかもしれない。しかもこの御幸(ごこう)は、陰暦十月のことだから、冬の始まりであり、佐野川が流れる海の光景をドラマチックに歌い上げている。

 

古道を駆けてきた道の旅人は、長滝の御旅所まで来ると、ここで街道とは離れ、進路を東にとった。そこに蟻通神社が鎮座しているのだ。

 

平安時代の歌人紀貫之は、紀州からの帰途、馬上のまま蟻通神社の前を通り過ぎようとします。するとたちまち辺りは曇り雨が降り、乗っていた馬が、病に倒れます。そこへ通りかかった里人(宮守)の進言に従い、傍らの渕で手を清め、その神名を尋ねたところ「ありとほしの神」と言ったのを聞いて歌を詠んで献上します。

 

かきくもり あやめもしらぬ おほそらに ありとほしをば思ふべしやは

 

さらに、『枕草子』では、紀貫之の故事伝承のお話の後、「 昔、唐土(もろこし)の国が日本を属国とするため提示した三つの難題に対して、主人公の中将が、老いた父の助言に従い、帝に進言して問題が解決されます」

つまり、姨捨伝説の一種なのだが、この三つ目の難題の答となった蟻に、糸を結んで七曲りの玉に緒を通したという説話が、‟蟻通神社”の縁起、社名伝説になったと言う。

 

七曲(ななわた)に曲(まが)れる玉の緒を貫(ぬ)きて
               ありとほしとも知らずやあるらむ(枕草子 二二五段)
そして室町時代、貫之集に典拠を示す謡曲『蟻通(ありどおし)』(世阿弥作)が生まれたのだ。和歌の神様、玉津島明神参詣の折の出来事なのだが、蟻通明神に手向けた歌は、貫之作とは違っているのだ。
雨雲の立ち重なれる夜半なれば、蟻通とも思ふべきかは

 昭和16年(1941)第2次世界大戦勃発し、翌年には、佐野町・日根野村・安松村・長滝村にまたがる一帯は、陸軍明野飛行学校佐野飛行場が建設され、田畑・ため池、一部集落も強制移転を余儀なくされました。
 このとき、蟻通神社も移転の運命にあり、現在地に移ることになりました。 長滝村の人々をはじめ、宮司・神社世話人の無念と失望は計り知れず、また、若者を戦地に出した後での移転作業は、大変な苦労の連続だったと記録されています。 境内面積は狭くなりましたが、社殿・舞殿・門・灯籠などの建造物は、村の方々により、ほぼ元通りに配置されました。 昭和19年8月遷座を終了しましたが、移転後1年で敗戦となったのでした。
ついでに述べておくと、古代に名を馳せている日根郡(ひねのこおり)は、近義郷(こぎのさと:貝塚市)・呼唹郷(おおのさと:泉南市)・鳥取郷(とっとりごう:阪南市)、そして賀美郷(かみのごう:泉佐野市)など広区域に相当する。
 道の旅人もすでに、街道沿いの南近義神社を周ってこの地に入っている。また紀州街道では、男里(おのさと)や鳥取ノ荘を駆けてきた。そして目指すのが、賀美郷である。
 実は、あの玉津島明神に祀られている、和歌三神の一柱、衣通姫(そとおしひめ)尊の住まわれていた宮がその地にあるのだ。しかも、本朝三美人の一人としてその名をとどめ、名の由来については、その美しさが衣を通して輝いていたことによる。

 第19代允恭天皇(仁徳天皇の第四王子)は、皇后から奉られた衣通郎女(そとおしのいらつめ)に心を奪われ、皇居とは離れた、藤原宮に住まわせていた。

「皇后はわが姉です。わたしに所為で常に陛下を恨んでおられ、また苦しんでおられます。そこで王宮(おおみや)を遠く離れてどこかに住みたいと思います。皇后のお心も少しは休まるのではないでしょうか?」

 天皇は直ちに河内の茅渟(泉佐野市上之郷)に宮室を建てて住まわせたのだが、そこが日根野であり、遊猟の地でもある。それに託けて茅渟への回数が多くなっていったが、そのことを皇后から諌められ、稀にしか行けなくなったのだ。

 

     とこしへに君もあへやも いさな取り、海の浜藻の 寄る時々を (衣通姫)

 

狩猟の地である日根野で、浜藻の歌とは奇異に感じるけれど、近くには樫井川が流れており、古代の海の近さを感じざるを得ない。そしてこの日根野の地が、古代において中心をなしていたとも考えられるのだ。

 

『古今六帖1285』に、読人不知(よみひとしらず)だが、姫の心境をうたったと思われる歌が載っている

 

      いつみなる日根の郡のひねもすに こひてそくらす君はしるらむ 

 

さらに樫井川上流を遡れば、日根神社に至るのだが、此処は御旅所まで戻り、夏の陣へ向かうことにした。冬の陣(1614年)で、夜討ちの大将と名を馳せた、塙(ばん)団右衛門直之の墓がある。

 

大阪方が、府中から貝塚に向けて南進していたとき、東方の紀伊和歌山藩主浅野長晟(ながあきら)の先頭部隊は、佐野の市場で軍議を開いた。家老浅野佐衛門佐は、「佐野において防戦すべし」というが、重臣亀田高縄(たかつな)はさらなる主張をする。

 「何よりも勝たねばならぬ。佐野は海辺に近く山嶽(さんがく)地帯からは離れ、ひらけた平野であり、兵馬の進退は思いのままである。いま少勢をもって大軍を打ち破るには、このような土地は不適である。それにひきかえ、後方一里(4キロ)ばかりところにある樫井は、われらに絶好の決戦場である。よろしく蟻通明神の松林を前にして八丁畷を銃撃しつつ後退すべきである。前方に松林があれば、敵もわが軍の兵力がどの程度が知ることもできないし、かつ八丁畷の左右は深い泥地なので騎馬を並べて攻め寄せてくることもできまい。かくすればわが軍の勝利は疑いない」                (日本の戦史『大坂の役』)

 

かの団右衛門は、聞こゆる猛勇なれば、縦横無尽に切て廻り、敵あまた討ち取り、暫く猶予の所に、多湖助左衛門か放つ矢、団右衛門が額に中(あた)るよと見へしが、馬より下にどうと落(おつ)。

 

司馬遼太郎の短編小説「言い触らし団右衛門の主人公、団右衛門は言う。

 

さむらいとは、自分の命をモトデに名を売る稼業じゃ。名さえ売れれば、命のモトデがたとえ無(の)うなっても、存分にそろばんが合う

 

 

淡輪(たんのわ)六郎兵衛は、団右衛門が戦死を見て、今は斯(かう)よと思ひ、四角八方に切て廻り、ついに討ち死にする。

 

この淡輪の妹が、豊臣秀次の側室小督(こごう)局であり、ほかの妻たちとともに処刑(1595年)されたが、生後1か月の娘お菊は助命された。

やがて成長したお菊が紀州の山口家に嫁いで数日後、夫・兵内は大坂夏の陣で和歌山城主浅野長晟に背き、豊臣側につき出陣しました。このため山口家は攻められ、お菊は大坂方の援軍を請うために密使として大坂城に向かい、使命を果たしました。しかし養家である後藤家に着いたお菊は山口一族の斬首、夫の討死を知らされ、自身も浅野方に捕らえられました。浅野は助命しようとしましたがお菊はそれを拒み、元和元(1615)年に処刑され、短い生涯を閉じました。そのお菊の像が、後藤家の菩提寺法福寺(阪南市)にある。

NHK大河ドラマ『真田丸』(2016年)を観た方はわかると思うけれど、豊臣方は、大坂城が大坂冬の陣ののち堀をすべて埋められてしまったため、夏の陣では城を出て戦わざるをえない状況になっていた。

河内方面、大和方面および紀伊方面より大坂城に迫る幕府軍に対し、紀州に向かったのが、大野治房(治長の弟)を主将に、塙直之(団右衛門)、岡部則綱、淡輪重政(六郎兵衛)ら兵3,000であった。また、紀伊および和泉一揆を煽動し、豊臣軍の紀伊攻撃に呼応するよう画策していたのだ。

ところが、4月29日、樫井の戦いで、一番槍の功名を狙った直之は、先陣の岡部則綱と競い合って突出し、治房本隊や和泉国の一揆勢との連携が取れないまま、混戦に陥った。

この時、大将の治房は、願泉寺(貝塚市)で食事をとっており、先鋒で戦闘が発生したことに驚き、樫井へ急いだが、既に浅野勢は撤退した後だった。

その樫井古戦場跡の碑が、明治大橋のたもとに建てられている。その樫井川の上流には、茅渟宮・意賀美(おがみ)神社、そして日根神社が鎮座している。この樫井川を渡る前に、大坂方の武将と言うより、講談にふさわしい豪傑、塙団右衛門のエピソードだけを挙げてこの章を終わりにする。 『朝鮮の役での旗手』『漆川梁(しっせんりょう)の海戦』『主君見限る七言絶句』『脇差の托鉢僧』『冬の陣での還俗』『夜討の大将』、その極み付けは『化け物退治』である。