旧石器人のアトリエ
八年の冬十月(かむなづき)に、百姓(おほみたから)の言(まう)さく、「是(こ)の時に、國中(くにのうち)、事無くして、吏(つかさ)、其の官(つかさ)に稱(かな)ふ。海内(あめのした)、仁(うつくしび)に歸(おもぶ)き、民(おほみたから)、其の業(わざ)を安
(やすみ)す」とまうす。(日本書紀『仁賢天皇』)
“国中は何事も無く、役人はみなその役にふさわしく、天下は仁に帰し、民はその業に安んじ
ている”と言うのである。
この24代仁賢(にんけん)天皇が、柴籬神社を創建したとある。彼は反正天皇の兄、履中天皇の孫であった。
仁賢天皇の父、市辺押磐(いちべのおしわ)皇子は、雄略天皇に謀殺されていた。雄略天皇が亡くなり、その子の清寧天皇が即位したが、子がなく、後継者問題が起こった。
そこで見つけ出されたのが市辺押磐皇子の二人の皇子であったー兄を億計(おけ)、弟を弘計(をけ)という。
清寧天皇が死去したあと、二人は即位を譲りあい、長らく位につかれなかった。そこで、姉の飯豊皇女が朝政をご覧になった。
系譜にはないが、女帝の誕生(不即位天皇)である。この飯豊皇女は、古事記では市辺押磐の妹ということであり、履中の娘になる。
飯豊天皇の死後、仁賢は弟に譲り(顕宗天皇)、そのあと即位した。
実はこの埴生坂本稜は、藤井寺市にあり、入口だけが羽曳野市である。また、仁賢天皇の宮は、奈良県天理市石ノ上附近にあり、石上廣高宮(いそのかみのひろたかのみや)と称される。宮が大和の地にあるにもかかわらず、この河内国に御陵があり、百舌鳥古墳群と対をなす、古市古墳群(藤井寺市・羽曳野市)の一基である。
この陵の近くを、古市大溝(おおみぞ)が走っていた。それを、地表に残るわずかな痕跡や、発掘調査の成果を手掛かりにすると、富田林市の喜志附近で石川の水を取り入れ、羽曳野市の西浦から軽里、野々上、高鷲を経て、島泉附近で東除川に合流していたことが推定される。幅20メートル、深さ5メートル以上の溝の両側には、さらに土手を築いたところもあり、人力だけで堅い大地を掘り開く、困難な大工事であったことが想像できる。『河内ふるさとのみち』
大溝(おほうなで)を感玖(こむく)〔南河内郡河南町から千早赤坂村にかけての地〕に掘る。
乃(すなは)ち石河の水を引きて、上鈴鹿(かみつすずか)・下鈴鹿(しもつすずか)〔和泉国〕・上豊浦(かみつとゆら)・下豊浦〔河内国〕、四處(よところ)の郊原(はら)に潤(つ)けて、墾(は)りて四萬餘頃(よよろずあまりしろ)の田を得たり。
(日本書紀『仁徳天皇』)
右記の画像は、羽曳野市高鷲付近の水路である。道の旅人は、この“古市大溝”が単に田畑のためだけに水路を設けたのであろうか?と想う。
もしその水路が、石川から東除川につながれていたとしたら、それはいち早く海へ出る道であったに違いない。さらに言えば、河内の豪族達が、高津宮へと急ぐ船の道であったかもしれない。
古くから伝えられる古市村(羽曳野市軽里)は、現在の古市1丁目から7丁目・栄町・西浦1丁目、そして白鳥1丁目から2丁目を含んでいる。当時の地域特性から、その地名の由来が、市場説では理解しにくいのだ。(水町星四『古代の謎を歩く』)
白鳥はまた飛んで河内に行き、古市邑(むら)にとどまった。(日本書紀『景行天皇』)
道の旅人にとって、この【古市と軽里】が気にかかるのは、その白鳥伝説にあった。つまり、この地を、記紀史上最高のスーパースター、ヤマトタケルの墓にする必要があったことと、河内王朝論についてであるが・・・。
確かに、この“軽里”は、ふしぎな魅力をもつ地名である。その前は“軽墓”と呼ばれていた。
そこから地名の由来を探ると、“軽皇子の墓がある”という説がある。
軽皇子として、名だたる人たち(木梨軽皇子・孝徳天皇・文武天皇)は居るけれど、ここではもちろん、ヤマトタケルを指していると思うんヨ。
ところが、ヤマトタケルには、立太子の記録はないんだよなぁ。
どうもこの“軽”は、仮(かり)の皇子という意味ではなかろうか?
すると“軽墓”というのも、仮の墓と言うことになる。その仮の墓とは?
“Licky Bell”が10:00、12:00、15:00、17:00、22:00と、それぞれ違った曲目で奏でられる。
道の旅人にとって、このベルは古代と現代をむすぶ“ベルの門”である。この音色を聴くと扉が開き、古代の街“古市”の真っ只中にいることがわかる。
この“LICはびきの”(羽曳野市立生活文化情報センター)を更に東へ進むと、再び“古市大溝”に出会う。
道の旅人は、大溝の痕跡と云われるイズミヤを北に折れ、一筋目を東に向かった。そこに石を輪切りにしたモニュメントが見える。この翠鳥園遺跡が“旧石器人のアトリエ”と呼ばれる場所である。
ガラスのように鋭く割れるサヌカイトの性質を利用した石の刃物(石器)が、主要な道具として人々の暮らしを支えていた時代がありました。
翠鳥園遺跡の東7kmのそびえる二上山の周辺は、近畿地方で最大のサヌカイト産出地として知られています。〔“サヌカイト”の名は、おなじ産出地である讃岐(香川県)に由来〕
ここにサヌカイトの道があります。道具を持つと言うことは、手先の器用な人たちが現れたということであり、そこで職能の分化がおこなわれ、技術も高められていきました。
一万年ほど前の縄文時代になると、職能が文化として彩られてきます。暮らしということ以外に、自分を表現すると言うことが加わってきました。
しかし、弥生時代になると、金属の道具が取って代わることになります。
旧石器人が、一所(ひとところ)に居て、そのまま縄文人になり、弥生人になったとは考えられません。しかし、この河内という国を考える時、職人達や技術集団が、古代から現代に至るまで息づいているように感じさせてくれるのです。
道の旅人も、しばらくは音のでる石サヌカイトの音楽を聴いて、旅の疲れを癒すことにします。