源氏三代の墓
羽曳野市壺井は、石川の東方に広がる丘陵地の谷部に立地しているが、河内源氏発祥の地として知られている。
措置へ向かうには、東に向かう竹内街道から外れて、南側から路を選んで、壺井通法寺へと進路を取った。
長久4年(1043年)に、河内国司であった源頼信(968-1048)の子源頼義(988-1075)が猟の際に焼けた草堂を見つけ、その跡から等身大の千手観音の霊像を得た。
これを本尊とする堂を壺井郷に建立し、新たに金色の阿弥陀如来像をも合わせて本尊とする通法寺を建立したのだ。
前九年の役(1051-1062)の時、頼義が子の八幡太郎義家(1039-1106)とともに奥州へ出陣し、凱旋ののち、「香呂峰の地」と呼ばれた同地に八幡宮を祀ったが、これが西北に隣接する壺井八幡宮の起りとなった。
頼義は浄土宗に帰依し、阿弥陀如来を本尊としたことから河内源氏の菩提寺となり、源氏の隆盛と共に栄えた。
役行者は、17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学び、その後、葛城山(葛木山。現在の金剛山・大和葛城山)で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。
文武天皇3年(699年)5月24日、役行者小角(おつぬ)を伊豆嶋に配流(はいる)した。はじめ小角は葛木山に住み、呪術(じゅじゅつ)を使うので有名であった。外従五位下の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)の師匠であった。のちに小角の能力が悪いことに使われ、人々を惑わすものであると讒言(ざんげん)されたので、遠流(おんる)の罪に処せられた。世間のうわさでは、「小角は鬼神を重いままに使役して、水を汲んだり薪を取らせたりし、もし命じたことに従わないと、呪術を使って動けないようにした」といわれる。(『続日本紀』巻第一)
道の旅人が、河内国香呂峰に向かったのは、そこに、河内源氏の棟梁、頼信の館(1020)があったからである。
もちろん“香呂峰”といえば、枕草子(1001年完成)で馴染んでいるけれど、「香炉峰の雪は簾を撥(かか)げて看る」(白居易『香炉峰下』)を意図したものであり、本来の地名と云うより、自称地のように思われる。
とはいえ、河内源氏の氏神である石清水八幡宮(京都府八幡市)を勧請した時、地名を香呂峰から壺井と改め、その私邸の東側に社殿を造営(1064)したのが、壺井八幡宮であり、河内源氏の総氏神になる。
実は、その壷井にも由来があり、頼義公に奥州の賊を平定するようにとの勅命が下ったのだが、渇きに苦しみ、八幡大菩薩に祈りを捧げ、巌間を穿ったところ、立ち待つ清泉を得て喉をうるおし、勝利を得、この清水を壺に入れて持ち帰り、ここに井戸を掘り、壺を底に埋めたのである。
この境内に歌碑がある。
「陸奥国にまかりける時、勿来の関にて花のちりければよめる」
吹く風を勿来の関と思へども 道もせに散る山桜かな (千載103)
これが、源氏武士の鑑として名高い、八幡太郎義家の歌であるが、彼こそ、武家政権鎌倉幕府を開いた、源頼朝の祖先に当たるのだ。
そして、幕府などによる武家政権は王政復古の大号令・江戸開城まで、足掛け約680年間に渡り、存続することとなるが、もちろん頼朝が、この地を立ち寄ることはなかった。
この後、道の旅人は、氏寺である通法寺址へ向かう。
と云うのも、明治初期の廃仏毀釈の際に廃寺になったのだ。
かろうじて山門には、【源氏 祖郷】が掲げられている。
しかも、そこが菩提寺であることを示すように、「源頼義朝臣之墓」があるのだ。
88歳でこの世を去った頼義は、遺言により河内源氏の菩提寺(ぼだいじ)である通法寺の観音堂の下に葬られたと伝えられています。
現在、通法寺境内(けいだい)の西端に頼義の墓があり、石垣に囲まれた基壇(きだん)が残っています。
江戸時代に書かれた『河内名所図会(かわちめいしょずえ)』には堂が描かれており、かつては墓堂(ぼどう)が建っていたことがわかります。
また、頼信・義家は、通法寺の南の山上に葬られたと伝えられ、円形の塚が残っており、頼信の孫である義家は、源頼義の長男で、八幡太郎の通称でも知られる。 しかも、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝や、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たるってわけよ。
ところで頼信の子頼義は、弓の達人として若い頃から誉れ高く、『今昔物語』などには、その武勇譚が記載されている。
此の盗人、水をつぶつぶと歩ばして行きけるに、頼信此れを聞きて、暗ければ頼義が有無も知らぬに、頼信、「射よ、彼れや」と云ひける言も未だ畢らぬに、弓音すなり。
『今昔物語 第25巻12話 源頼信朝臣男頼義射殺馬盗人語』
簡略しすぎてわかりにくいだろうけれど、闇の中を別々に追跡していた親子が、賊を見つけたとたんに、父が子に矢を放つよう命じる場面である。
つまり、源氏の棟梁たる頼信・頼義親子が、以心伝心の合力によって、馬盗人を殺し、馬を取り戻すという物語なのだ。
父子ともども、武士として讃えられるエピソードであるが、道の旅人は、ここから河内源氏の祖頼信、また誉れ高き孫の、義家の墓へ赴いたのである。
左が頼信(968~1048)の墓であり、摂津国多田(現・兵庫県川西市多田)の地に源氏武士団を形成した、源満仲(912~997)の三男である。
“道長四天王”のひとりでもあるが、道長とはもちろん、藤原道長のことであり、大江山での酒呑童子討伐の頼光(948~1021)は兄にあたる。
そして右側が、孫の義家(1039~1106)の墓になり、その子孫が、最初の武家政権を築いた、源頼朝であるが為、義家も天下第一の武士として讃えられるようになった。
鷲の棲む深山[みやま]には、概[なべ]ての鳥は棲むものか、
同じき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや (『梁塵秘抄』巻第2)
味方にすれば頼もしいが、敵に回せば恐ろしい武将であれば、公家たちにとっても近寄りがたく、その戦いぶりに、残酷非道の噂も聞こえてきたようだが、一方で、次のようエピソードを残しており、これにて河内源氏を後にする。
衣川館にたてこもる安倍貞任(さだとう)に、「衣のたてはほころびにけり」とうたいかけたところ「年をへし糸のみだれの苦しさに」とこたえたので、貞任の心ばえに感じて、義家は攻撃をやめさせた。 (『古今著聞集』武勇三三六)
道の旅人は、 ここで源氏三代の墓巡りを終えて、飛鳥戸神社へまわり、上ノ太子へと向かうが、その前に、この“近っ飛鳥”について、少しだけ説明しておかねばならない。
当地は5世紀に渡来した百済王族・昆伎王の子孫である飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)氏族の居住地であると云うこと。
つまり、蘇我氏も含まれる百済系帰化人たちにとっては、河内飛鳥の拠点になっちたように思うからだ。