王陵の谷
と云うのもここに、百舌鳥古墳群・古市古墳群と続いて、磯長谷古墳群(しながだにこふんぐん)があるからだ。しかもこの磯長谷は、王陵の谷(30代敏達・31代用明・33代推古・36代孝徳)と呼ばれており、これに聖徳太子墓が加わり梅鉢御陵と総称されているのだ。道の旅人は、これを巡って、太子一族の系図に迫ってみることにした。年代順にしかるべき所を、コースに従うことにして、その初めは太子の父用明天皇(生年不詳~587)であるが、その墳墓は、大王最初の方墳が築造されているのだ。
ここに至って、一触即発の緊張がピークに達しようとしていた。それが、大連物部氏と、大臣蘇我氏との対立である。それが表面化したのが、病に伏した用明帝のお言葉であった。
天皇、群臣に詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「朕(われ)、三宝に帰らむと思ふ。卿等(いましたち)議(はか)れ」とのたまふ。 (日本書紀『用明天皇』)
言葉である。ここで一気に、蘇我と物部の地位が逆転していく。
「日本国(やまとのくに)に聖人有(ま)す。上宮豊聰耳皇子(うへのみやのとよとみみのみこ)と曰(まを)す。固(まこと)に天に縦(ゆる)されたり。玄聖の徳を以(も)ちて、日本国に生(あ)れませり。三統(さむとう)を苞(つつ)み貫(ぬ)きて、先聖の宏猷(くわういう)に纂(つ)ぎ、三寶(さむぽう)を恭(つつし)み敬(ゐやま)ひて、黎元(れいげん)の厄(やく)を救ふ。是(これ)実(まこと)の大聖なり。今し太子(ひつぎのみこ)既に薨(かむさ)りましぬ。我、異国(あたしくに)と雖(いへど)も、心は断金に在り。其れ独り生くとも、何の益(しるし)が有らむ。我、来年(こむとし)の二月の五日を以ちて、必ず死(みまか)らむ。因(よ)りて、上宮太子に浄土に遇ひたてまつりて、共に衆生を化(わた)さむ」 (『日本書紀』推古天皇)
太子巡礼というように、誰からも慕われた聖徳太子(574~622)であるが、この太子を批判している人達もいる。林羅山・荻生徂徠・山片蟠挑・本居宣長・平田篤胤など、名だたる儒学者や国学者達である。 太子18歳の思春期に、母の弟を弑するというようなことを知って同意するであろうか?むしろ馬子は、そのようなことを牽制したであろうと思われるし、太子はその事件をきっかけに、倭を仏教の国にする、理想に燃える青年へと成長したのではないだろうか?
敏達天皇陵が、太子町における最初の御陵である。これも、母:石姫(欽明天皇皇后)との合同葬ではあるが・・・。
蘇我氏を母方に持たない天皇の即位は、「この頃の気運は、「仏教をうけたまはず」であった。しかし、息長真手王の女、広姫を皇后としていたけれど、亡くなったのち、16歳年下と言われる異母妹の額田部皇女(推古帝)を改めて皇后に立てたのだ。
これらは用明帝の時代に起こった事だが、もはや次期の王権争いが始まっていた。どうやら用明帝は虚弱体質だったように思える。 そして、穴穂部皇子の弟が第32代崇峻天皇になったのだが、意に添わないということで、馬子は刺客を放ったのである。。臣下により天皇が殺害されたのは、確定している例では唯一である[この事件に、果して聖徳太子は関与したであろうか?たとえ宮廷クーデターとしても、太子はこれを機に、「あってはならない!」こととしたに違いないのだ。それが推古帝の、皇太子として摂政をしたのである。 この、馬子の姪に当たる、第33代推古天皇は、記紀誌上、最初の女帝であった。しかも、物部氏を倒した蘇我氏は、大王と云われてもおかしくない実権を握っていたのだ。
推古元年夏四月の庚午(かうご)の朔(つきたち)にして己卯(きぼう)に、厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)を立てて皇太子としたまふ。 (日本書紀『推古天皇』)
推古帝は、即位を三度固辞された。しかし、皇太子を聖徳太子にする事によって落ちついた. という事は、もう既に太子が、誰からも愛され、徳が備わってたことを意味するのであろう。 推古帝を後押しした馬子、太子のサポートを請い願った推古帝、馬子に“国づくり”を語った太子、初めて政治に“国づくり”として、明確なヴィジョンを打ちたてたのはこの時代ではないだろうか?そして、“推古”という漢風諡号が、《昔のように天皇の力を知らしめよう》ということであるなら、この女性も、賢明ながらも、波瀾に充ちた一生を送ったに違いない。
推古天皇32年(624年)、馬子が葛城県(馬子の本居(ウブスナ)とされる)の支配権を望んだ時、女帝は、「あなたは私の叔父ではあるが、だからといって、公の土地を私人に譲ってしまっては、後世から愚かな女と評され、あなたもまた不忠だと謗られよう」と言って、この要求を拒絶したのだ。
つまり推古天皇は、皇太子と大臣馬子の勢力の均衡を保ち、豪族の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図っていた。 そうした中で聖徳太子は、『憲法十七条』を発布し、『冠位十二階』を制定し、律令制の基礎をつくったばかりでなく、仏教国としたのである。そして、隋との国交も始まったのだ。
古墳時代の終末期・飛鳥時代の初期に、大王の墓が近つ飛鳥に集中しているのは、この地が、蘇我の本拠地であることを意味しているのかもしれない。それを示すかのように、伝蘇我馬子墓(西方院の東)と蝦夷塚(近つ飛鳥博物館の裏手)もあり、蘇我倉石川麻呂古墳(仏陀寺)もあるのだ。ついでに言うなら、華道の祖として、池坊が管理している小野妹子の墓もある。
しかし、道の旅人としては、ここで終わるわけにはいかなかった。梅鉢古墳として、五つ目の古墳に向かわねばならないからだ。それが竹内街道沿いにある、孝徳天皇陵である。
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