「わが子小碓皇子、かつて熊襲の叛いたとき、まだ総角(あげまき)もせぬのに、長く戦いに出て、いつもわたしを助けてくれた。東夷が騒いで、他に適当な人がなかったので、やむなく賊の地に入らせた。一日も忘れることはなかった。朝夕に帰る日を待ち続けた。何の禍か何の罪か、思いもかけずわが子を失ってしまうことになった。今後だれと鴻業(あまつひつぎ)を治めようか」といわれた。                             (日本書紀『景行天皇』)

 ヤマトタケルが亡くなったと聞かされたときの、父の嘆きである。

 

 「わたしを殺す気か!」と、親を恨んだヤマトタケルだが、父をどのように理解していたのであろうか?

 ヤマトタケルは、早くから母を亡くし、母の愛情を知らないできた。

しかし、天皇が何をなすべきかは知っていたから、親子の情よりも、国家の業に自分をぶつけたのかもしれない。

ここで気になるのは“伊岐宮”である。もとは、軽里(かるさと)地区の西方の岐谷(いきだに)に祀られていたんよ(白鳥陵の頂)。

その後、南北朝や戦国の戦火にかかっ

て次第に衰微し、峯ケ塚古墳(みねがづかこふん)に小祠として祀られていましたが、1596年慶長の大地震で倒壊し、そのまま放置されていました。

 江戸時代の寛永末期に現在地に移され、日本武尊(やまとたけるのみこと)と素戔鳴命(す

さのおのみこと)を祭神とする古市の氏神になったってわけ。

 道の旅人には、このヤマトタケルとスサノオノミコトが重なり合ってくる。ヤマトタケルは

一人の物語ではないと云う。そこには、古代の家族、とりわけ王家の中に、父と息子の問題が常に潜んでいたのである。
 もっと端的に言えば、人であるヤマトタケルは、ファザーコンプレックスであり、一方、神

であるスサノオノミコトは、マザーコンプレックスであった。

 このスサノオが、地上に降りて、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治し、その時、オロチの尾から、天の叢雲(アマノムラクモ)と云う剣を手に入れるんよ。

 その剣を、ヤマトヒメから授かったのが、ヤマトタケルなんだよね。そして火に囲まれた時、草を薙ぎ払ってピンチから脱出したことから、草薙の剣と呼ぶようになったんだ。

 これが三種の神器の一つになるんだけれど、なぜ、八岐大蛇の中に遺されていたのであろうか?

  わが頼む西のはやしの梅の花 みのりの花の種かとそ見る(『新葉和歌集』 後村上院)

 “西のはやし”とは、西琳寺のことである。それは、河内の豪族達をも意味し、父(後醍醐天皇)の跡を受け継ぐように、後村上もまた再起の夢を見つづけていたのである。

この西琳寺については、東高野街道で述べることになるが、創建時は現在よりも一回り大きい寺域(東西109m、南北218m)を有し、難波宮と飛鳥を結ぶ日本最古の街道である、この竹内街道に面していたのだ。

 

 話を戻すと、後醍醐天皇は醍醐村上天皇の、延喜・天暦の治を理想としており、醍醐天皇にあやかって、生前自ら後醍醐の号を定めていたことを受け、後村上院もまた追号されたってわけ。

と云うわけで、そんな後村上天皇も、幼くして軍(いくさ)の連続であった。彼もまた、父親コンプレックスであり、“タケルシンドローム”の一人ではないだろうか?彼はヤマトタケルと違って、父親の事業を受け継ぐことになるのだが、夢を追いながら、吉野・賀名生(あのう)・金剛寺(天野行宮)・観心寺・住吉行宮と移っていった。

竹内街道に戻ると、つまり東高野街道との交差点に道標があり、嘉永元年建立(1848)の大和路道標なのだが、ここが【蓑の辻】と呼ばれている。

その由来についてはわからないが、蓑(みの)と言えば、藁(わら)を編んで作られた雨具であり、雨を防ぐために衣服の上からまとうものである。

1846年2月21日(弘化3年1月26日)、仁孝天皇が崩御。3月10日(弘化3年2月13日)に践祚(せんそ)し第121代孝明天皇(明治天皇の父)が誕生した。

10月31日(旧暦9月23日)、即位の大礼が行われ、11月4日(旧暦9月27日)、将軍である徳川家慶、世子である徳川家定の名代が京都所司代の酒井忠義と参賀した。

その代始(だいはじめ)の改元は、1848年4月1日(弘化5年2月28日)に行われ、元号が【嘉永(かえい)】となったのだ。

 

朝廷は「万延」・「明治」などを含めた7つの案のうち、最終的に「天久」と「嘉永」の2案に絞り、朝廷の内意は「天久」であると幕府に伝えた。だが、幕府は「嘉永」を推して譲らず、最終的に朝廷もこれに従った。

【出典】『宋書』楽志の「思皇享多祐、嘉楽永無央。(皇を思い多く享(すすめ)れば、嘉を祐(たす)け、楽永く央(つきる)無し。)」から。

 

この道標は、東高野街道向けに記されており、少し寄り道をして、この街道をまっすぐ進むと高屋城跡がある。あの信長の軍団が集結した場所でもあるのだ。 

天正3年(1575年)4月6日、信長は1万ほどを率いて、秋を待たずに京都を出発し、八幡(やわた)を経て、7日に若江城へ入城。8日には駒ヶ谷山に布陣し、高屋城攻城に動き出した。三好康長(長慶の叔父)も高屋城の不動坂口より出撃し、双方激しい合戦となった。織田軍は高屋城の周辺を焼き討ちにし、麦苗も薙ぎ捨て(苅田)にした。

12日、織田軍は住吉へ移動。13日には摂津・大和・山城・若狭・美濃、尾張・伊勢・丹後・丹波・播磨根来衆の増援軍が続々と到着し、総勢10万余の大軍となった。信長は天王寺を本陣とし、住吉・遠里小野にも布陣させ、石山本願寺と対峙した。

14日に石山本願寺に押し寄せ、ここでも石山本願寺周辺の作物を薙ぎ捨てにした。

16日には遠里小野に移動し信長自身も作毛を刈り取り、新堀城周辺に陣を張った。 新堀城には十河(そごう)一行や香西長信が立て篭もっており、高屋城と石山本願寺との中間にある城で両城を支援していた。

17日、織田軍はこの城を取り巻き、19日堀草などを入れ埋め立て、夜になって火矢を射かけ大手門、搦手門の両方に突撃し、170余の首級をあげた。

十河一行は討ち死にし、香西長信は生け捕りにされ、斬首された。 新堀城が落城すると、三好康長は信長の側近であった、松井友閑を仲介にして降伏を申し出た。信長は康長を赦免し高屋城の戦いは終結した。


このまま、竹内街道をを東に進めば、石川に出くわす。ここにかかる橋が、【臥龍橋】である。道の旅人は、なぜこの名がつけられたのか、不思議に思っていた。この石川が、北へと流れ、大和川と合流するのだ。

現在の大阪を流れる大和川は、人工の川(1704年完成)なのだが、その上流は、名前のとおり、大和の国の水を集めて流れ来た川であり、金剛山麓の南河内地域を南から流れて来た石川との間には、古代国家を形成してきた曽我派と物部派の、帰化人たちの分岐点を見ることができるのだ。