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みさき公園
八十七年の春如月の丁亥(ひのとのゐ)の朔(ついたち)辛卯(かのとのう)に、五十瓊敷命、妹(いろも)大中姫(おおなかつひめ)に謂(かた)りて曰はく、「我は老いたり。神宝を掌(つかさど)ること能はず。今より以後は、必ず汝(いまし)主(つかさど)れ」といふ。
(日本書紀「垂仁紀」)
そこで大中姫は物部十千根大連に授けて治めさせられた。この五十瓊敷命の宇度墓古墳が淡輪にある。しかも、壺石などがこの岬町から出ている。壺石は褐鉄鉱質で、石の中央が中空になっている。
鉄は地殻には酸素・ケイ素・アルミニウムに次いで多く存在し,多くの鉱物に含まれるが,酸素と化合した赤鉄鉱や磁鉄鉱という鉱物として産するものが資源として重要。その他の鉄の鉱石としては水酸化鉄である褐鉄鉱があるが,不純物が多いため精錬しにくく重要性は劣る。
ところが、「古代の鉄と神々」を著した皇學館大学教授真弓常忠氏によると、湿地帯や水中に含まれる水酸化鉄が沈殿して、この鉄分を好むバクテリアが自己増殖して細胞分裂を行い、葦・茅・薦などの根を中心に鉄分が徐々に固められ、外郭を作る。そのあと水中の植物の根が枯死し中空の褐鉄鉱の団塊が出きるのだそうである。特にこの中空部分に内核が残った塊は、振るとチャラチャラ音がする。
古代人はこの音の出る鉄塊(鈴)を集め、700度から800度の熱で溶解して、2~3度精錬すると、実用に供せられるぐらいの鉄の素材がとれる。(岬ライオンズクラブ『みさき風土記』)
つまり、岬町にその痕跡があったのだ。もし、五十瓊敷命がここのところを抑えているとしたら、弟の景行天皇においても脅威であったろう。さらに、ヤマトタケル命との結びつきも考えられるのだが、それはまた、竹内街道にて語ることになろう。
岬町は、いろんなコース(ぶらり浪花探訪)を選ぶことができるが、道の旅人はみさき公園から深日へ向かい、山越えと海辺の二つのコースにわけ、紀州路(府下のみ)を終えることにする。
その一、【孝子峠越え】
天平神護元年(765)十月十三日、称徳天皇は紀伊国へ向かった。
つまり、平城京を出発し、先ず大和国高市郡の小治田(おわりだ)宮に入る。十五日には檀山陵(まゆみのみささぎ)【草壁親王陵】を通過し、宇智郡に到り、翌十六日には紀伊国伊都郡に到った。
そして十七日、那賀郡の鎌垣行宮(かまがきのかりみや)、十八日に玉津嶋に到着して、これが称徳天皇の和歌浦行幸と呼ばれるものだ。
この後、事件が起きた。それは十月二十二日のことであった。
『淡路に流された淳仁天皇は、無念の思いで過ごされていたらしく、配所の垣を越えて逃げるところを見張りの兵士に捕らえられ、天平神護元年(765)10月23日、33歳で崩御された。わずかに在位6年余であった』(『続日本紀』巻第二十六)
それからの行程は、25日海部郡岸村行宮(和歌山市貴志)、和泉国日根郡の深日(ふけひ)行宮(所在地は現大阪府泉南郡岬町深日とされます)に着いたのが26日である。
27日には同郡の新治(にひはり)行宮(所在地は未詳ですが、現大阪府貝塚市新井付近とする説があります)に、29日には河内国の弓削(ゆげ)行宮(所在地は河内国若江郡弓削郷。現大阪府八尾市東弓削・八尾木とされます)に到った。
そしてこの弓削で、道鏡を“太政大臣禅師”に任命したのである。
それから、80年近く過ぎ、承和の変が起こる。
そこに、橘逸勢(はやなり)が連座したのだが、これは、藤原氏による他氏排斥事件に巻き込まれたのだと云われている。
「橘秀才!」
走り寄って、その肩を支えはしたもののあまりな衰弱のひどさに、(力を入れすぎ
たら折れてしまうぞ)瞬間、篁(小野篁:802~853)は危ぶんだほどだった。
纏っているのは襤褸にひとしい囚衣だし、それも古血をこびりつかせて、板さなが
らこわばって見える。蓬髪はぼうぼうと肩に乱れ、黄ばんだ白髪に変じていた。杖
の打撃を浴び、どうやら逸勢は、背骨か腰骨を損じてもいるらしい。
(杉本苑子『檀林皇后私譜』)
此処孝子街道には、“孝子”という地名の由来にもなっている橘逸勢(782?~842)と娘の墓があるのだ。
彼は空海・最澄らとともに渡唐し、その学才は「橘秀才」と呼ばれた。帰朝後、書道の妙で名をあげ、嵯峨天皇・空海とともに「三筆」と称された。ところが、承和の変に巻き添えを食らい、“橘”の本姓を除かれ、伊豆国に流罪となった。
しかし、衰退している父を心配した娘は、昼はとどまり夜に後を追いかけたが、遠江国板築駅で父は亡くなる。
逸勢が復位したのは嘉祥3年(850)の事、正五位下を贈位され、本郷に帰葬も許され、また従四位下を追贈。
貞観五年(863)の神泉苑での御霊会には御霊の内の一人でもあった記録が残っており、彼の怨霊を恐れていた事が窺い知れる。
京都から護送されるおり、逸勢はこの地で海に沈む夕日を眺め、心に残したものがあったのであろうか?それとも、尼になった娘妙沖が帰葬にあたり、帰っても詮無いことを悟り、山間に庵を結び住みついたのであろうか?今その墓石は、海には背を向け、和歌山方面の線路を挟んで左右に分かれている。
その二、【大川越え】
ここに釣舟かとおぼしき、木葉のやうなるが散り来て、我が船に漕ぎよせ、苫上げて出づる男、声をかけ、「前の土左守殿のみ舟に、たいめたまはるべき事ありとて、追ひ来たる」と、声あららかに云ふ。 (上田秋成『海賊』)
紀淡海峡のどの辺りか分からないが、多奈川にたどりつく前であったろう。その海賊が申し上げたことは、①貫之(870?~945)が編集した『古今和歌集』の仮名序への言及であり、更に、貫之のもとに届いた②“菅相公論”(菅原道真論)の文である。
海賊が何ゆえ道真(845~903)を論じなければならなかったのだろうか?そのことで、上田秋成への興味がわいてきた。
その道真も、四十二歳のころ、讃岐国に赴任したことがあった。その折は、播磨国から渡っている。勿論、土佐のルートとは違うし、岬町は紀氏の祖先がまつられた領土でもあったから、一般の四国ルートも、ほかにあったのかもしれない。
二月一日。朝の間、雨降る。午刻ばかりに止みぬれば、和泉の灘といふ所より出でて漕ぎ行く。
海の上、昨日の如くに、風波見えず。黒崎(岬町淡輪)の松原を経てゆく。
所の名は黒く、松の色は青く、磯の波は雪の如くに、貝の色は蘇芳に、五色にいま一色ぞ足らぬ。 (紀貫之『土佐日記』)
貫之が“五色に今一色ぞたらぬ”と綴った黒崎の浜は、ヨットハーバーとして、マストを空に起立している。
この一色とは、もっとも尊い色であり、天帝に比する黄色である。これが欠けているのだ。しかし、ここに“紀”貫之が無事に到着した(935年)。欠けてなるものか、という気概があったのであろうか?この10年後、貫之も亡くなる。
ところで道の旅人は、貫之とは逆に、多奈川から先を進まねばならないのだ。府道岬加太港を西に小島漁港の方へ進むと、西川の楠橋北詰に井蛙塚の碑がある。ここから、伊能忠敬も沿岸測量で通った中の峠に向かうハイキングコースであるが、横手に入る道が分かりにくいかも しれないなぁ。
現在、大阪ゴルフの裏手、長崎辺りから深日港までは、その昔吹飯(ふけい)の浦と呼ばれ、海岸線には怪岩奇岩がそばたち、千状萬態の景色で、それぞれ冠石(かむりいし)・烏帽子岩・入道岩などの名前がつけられていた。
このあたり一帯から、多奈川の浜辺にかけて多くの鶴が渡っていたと云うことで、平安の世には鶴の名所・月の名所として宮廷歌人の話題となり、歌枕として数多くの名歌が生みださている。広重の絵にも『諸国六十八景 和泉・吹飯浦』がある。
時津風吹飯の浜に出で居つつ
あがふ命は妹がためこそ 【万葉集 3201】
千鳥なくふけひのかたを見わたせば
月かげさびしなには江の浦 西行
こうして道の旅人は、紀の国に入った。この紀州街道は浜に沿った街道なので、比較的楽な道ではあるが、学ぶことは多難である。まだまだ、この道に学ばねばならないことは一杯あるが、ひとまずは、国境まで達したことで終わりたい。