りんくうタウン
和泉といふところへ行きたる男のもとより「佐野浦といふ所なむ、ここにありけりと聞きたりや」と言ひたるに
いつみてか告げずば知らむ東路と聞きこそわたれ佐野の船橋 (和泉にあると云うのなら、あの東路の恋を成就するように、どうか佐野の舟橋を渡ってください) 『和泉式部続集』
“和泉といふところへ行きたる男”というのは、和泉式部(978~没年不詳)の最初の夫、橘道貞(生年不詳~1016)のことである。和泉守になって和泉国に下向した道貞が佐野(泉佐野)という地名を聞き、「あなたの言っていた佐野浦という所が和泉国にあるよ」と都にいる和泉式部に知らせてきた、その返し歌である。 (樋口百合子『歌枕・泉州』)
上野(かみつけ)の佐野の船橋とりはなし親はさくれど我(あ)はさかるがへ
本歌である“上野の佐野”は、群馬県高崎市にある地名である。“船橋”とは、舟をたくさん浮かべて橋の代わりにしていたことを言う。 それにしても、その名の由来となった和泉式部に出逢いたいものであるが、その佇まいをイメージさせる個所が、マーブルビーチにあった。
ところで時代も遡り、三条西実隆(1455~1537)の『逍遥院殿高野参詣日記』に、佐野の市場のにぎわいが詠われている。
さのの市人たち騒ぎ
“高野参詣”なら紀州街道ではなく、ひょっとしたら熊野街道沿いかとも思うが、人通りや家並みに、ホッとしたひと時だったのかもしれない。 さらに貝原益軒(1630~1714)の「南遊紀行」には、「佐野市場は貝塚より十一里余。民家千軒ありと云う。富商多し。民家皆瓦葺‥‥‥商人多く船を持ちて家業とす。其中に船を多く持たる大富商あり」とある。
その同じころ、井原西鶴(1642~1693)が『日本永代蔵』(1688)に書き記していることがある。
この唐金も、食(めし)一族である。このように、“海に生きた人々”は、諸大名の財政まで関与
するようになった。 豪商食野・唐金は、廻船業(かいせんぎょう)を営むとともに(運輸業)、佐野・大阪・江戸に数多くの屋敷・蔵・店を所持し(商業)、これらによって得られた巨万の富を活用した、大名貸し(金融業)なども営み、これらを組み合わせた事業ネットワークを全国展開し、さらなる富を築き
ました。 これが長者伝説となって、アーケードのつばさ 商店街では幟が立ち並んでいるんよ。
なお、大阪市西区堀江一帯は、ほぼすべて両家とその一族の所有地となり、天保12年の古地図によると、汐見橋は「唐金橋」と呼ばれていたんよ。
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