助松の本陣
本陣とは、江戸時代の参勤交代の際、藩主の休憩所として使用された場所のことである。しかしこの本陣を目指す前に、立ち寄らねばならないところがあった。
それが、紀州街道の東側にある助松神社である。
道の旅人は、再び街道に戻り南進すれば、すぐ本陣である。
この助松の本陣は、旧紀州街道沿いに建つ田中覚右衛門の屋敷で、広さは一町(約110m)四方、間取りは主屋が東向き正面、南脇に長屋門を置き、土蔵・納屋等を配した造りになっている。何度か改造されているものの、江戸時代前期の豪農の住居形式をよく残した建物だ。庭は、大和小泉藩家老職で石州流の茶人の、藤林宗源の作である。
塵打ち払い立つ裾に、吹き落しくる桐一葉、おぼえず見やる庭先の、枝には残す影もなし、且元はながめ入り、
且元「我が名にちなむ庭先の、梧桐(あおぎり)悉く揺落(ようらく)なし、蕭條(しょうじょう)たる天地の秋、ア有情(うじょう)も漏れぬ盛衰は、ハテ是非もなき、定めじゃなア」 (坪内逍遥『桐一葉』)
賤ヶ嶽の戦いに七本槍のひとりとして勇名をあげた片桐且元は、京都方広寺(ほうこうじ)の鐘銘(しょうめい)事件で苦悩に立たされ、あらぬ噂が飛び交い、且元の失脚を画策する動きが大阪城内にあった。
その一部始終を見ていた、かの宗源より贈られし片桐且元遺愛の石灯籠が、今も庭に残っていると云う。ただし、建物内部は現在も所有者が住居しているため非公開である。
桐一葉落ちて天下の秋を知る (中国古典『淮南子』)
ここからが冬の陣である。家康は72歳になっていた。ここで一気に攻め落としたい家康ではあったが、さすが天下一の堅城である。攻め込むことができなかった。
結局、和議の成立となったが、一年後の夏の陣で落城せしめた。その二十日後、且元は亡くなった(病死説と自殺説がある)。翌年には家康も死去した。
“男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり”-これは紀貫之の『土佐日記』の書き出しである。
(二月)五日、けふ辛くして和泉の灘より小津のとまりをおふ。松原、目もはるばるなり。かれこれ苦しければ詠めるうた、 「ゆけどなほ行きやられぬは妹が績(う)むをつの浦なるきしの松原」。かくいひつゞくる程に「船疾くこげ、日のよきに」と催せば楫取船子どもにいはく「御船より仰せたぶなり。朝北(あさぎた)の出で来ぬさきに綱手はやひけ」といふ。 (紀貫之『土佐日記』)
この“小津の泊(とまり)”を、今の大津神社のあたりとしている。貫之が土佐を出発したのが十二月二十一日(現行暦二月二日)であるから、この二月五日は現在の暦になおすと、三月の中旬と言うことになる。
土佐日記は承平五年(935)に書かれたもので、それより約百二十年後、康平二年(1059)頃、更級日記が書かれた頃には、「大津」と呼ばれていた。
冬になりてのぼるに、大津といふ浦に舟に乗りたるに、その夜、雨風、岩も動くばかり降りふぶきて、かみさへ鳴りてとどろくに、浪の立ちくる音なひ、風の吹きまどひたるさま、おそろしげなること、命かぎりつと思ひまどはる。
(菅原孝標の娘『更級日記』)
この日記には日付がなく、回想録のかたちで書かれたものである。秋の頃に和泉の国に下って、国司であった兄の定義のもとに滞在していた。しかし冬になって・・・ということであり、現在の暦では十一月の中旬であろうか?
この件を読むと、冬の嵐が頭に浮かんでくる。しかも冬の雷も起こっているのだ。これが日本海側の天候なら、鰤起しとか雪起しと呼ばれる、寒さが本格になる前触れである。それとおなじことが、当時は暖冬ではなかったであろう、表日本でも起こったのである。
大津神社の西側に、浜街道がある。
この道は延宝絵図(江戸初期の検地の際に描かれた絵図)の中では内町筋として記されています。
当時は町の中心を南北にとおる道として多くの人々に親しまれてきました。
現在は、この道と交差する九本の道と町並みが残されています。
この道は紀州街道の浜側を通る道筋との意味合いと『浜』への愛着心、そして江戸時代の初めから続く歴史ある町並みを大切に守ろうとする市民の情熱から、この道に親しみを込め浜街道と名付けたものです。
ところで明治四十一年、粟神社(式内社)が大津神社に合祀されました。この粟神社は、粟直(あわのあたい)氏の祖神と言われていますが、この地にあって粟というと、阿波の国のことが考えられ、まして土佐日記などにふれると、「四国との航海の無事を祈るための社では?」と思ったりもする。
当時、小津の泊は、京より国府に赴任する官人たちの船着場であり、府中の浜とも言わ
れ、大津と府中は深い関係にあった。この地に離宮として茅渟宮(珍努宮、和泉宮)が置かれたことなどを考えると、和泉国は泉大津市が拠点でもあった。