楯並橋
大津川を渡ると、忠岡町に入る。 この、大阪府泉北地域に位置する町は、日本一面積の小さい町でもあるのだ。 そうなると、ついつい応援したくなるよね。 ところで、この川に架かる“楯並橋”には、町名の由来があると云うんよ。
ここで紀州街道の東に位置する忠岡神社に寄る。 と云うのも、高浜虚子・年尾(虚子の長男)、そして稲畑汀子(年尾の次女)の三代句碑があるのだ。
ところが虚子の句は、堺大浜で詠んだものである。 あとの二句は、忠岡の浜に数百羽飛んでいた千鳥と、大津川の中州を想っての作品なのだ。 これってルール違反かもしれないけれど、『土佐日記』までさかのぼれば、堺の石津へ向かう辺りで鴎を詠み込んでいるのだ。
祈りくる風間と思(も)ふをあやなくも かもめさへだに波と見ゆらむ
果たしてそんな光景が続いていたかどうかは知らないけれど、ここの句碑があるこそ意味深い気がする。 つまり、この町のキャッチフレーズ『支えあうぬくもりのある町』とともに、冬には千鳥の洲を見せてもらいたいのだ。
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紀州街道をそのまま駈けると忠岡小学校に至る。そこで不思議なことに、岸和田市と境界線をかぶることになる。この校門の真向かいに永福寺がある。
ここにも源平の話が遺されていたのだ。
境内に十二世紀後半建久1198年、木曾義仲の家臣で今井兼滋(安明)氏が伊吹山より持ち帰り、移植したと伝えられるビャクシン(イブキ)の一種ともいわれ、今は大阪府の天然記念物に指定され、その由緒を尋ねて訪れる人も少なくありません。
いまもなお昔わすれずほととぎす
庭のいぶきに来てやなくらん
この一首が、安明老人の歌として言い伝えられています。
この忠岡町には、源平の親と子の物語がある。それはまた、“祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり”と聞くものかや、兼滋は義仲と乳兄弟である父の家名を捨てた。しかし、血筋を遺すことはできた。父の生き方を思い、これでよいのかと自分の生き方を問い、親になって子を思うとき、これでよかったのだと自分に言い聞かせもした。
紀州街道を駈けると、忠岡町を一気に過ぎてしまいそうだが、この街道の西側に正木美術館がある。正木氏は忠岡町の素封家で、禅宗文化に惹かれ
室町時代の水墨画や茶道具などを収集した。収蔵品は彫刻・陶磁器・墨跡などの古美術品約1,200点で、その中には"小野道風 筆三体白氏詩巻"など国宝3点と重要文化財12点が含まれる。
道の旅人は、源氏の血をひく足利時代の古美術品が収集されているのも、この町にふさわしいと思いながら、源平の町を後にする。