浜寺公園
阪堺線なら、浜寺駅前駅で終点になるのだが、諏訪ノ森・浜寺(公園)・羽衣へとつづく、南海本線のこの三駅には、その駅名だけで物語を感じてしまう。 つまり、森・浜・羽衣のイメージを追いかけるだけで、 あたかも少女時代の童話の世界に踏み込みそうになるのだ。
しかし、此処"浜寺”に限ってその歴史をひもとくと、南北朝時代に臨済宗の三光国師(覚明)が、この地に大雄寺という大伽藍を建立し、吉野の日雄寺を「山の寺」と呼ぶのに対して、「浜の寺」と呼ばれていたことに由来すると言う。 この浜寺公園には、松の景色があり、今ではもちろん白砂青松(はくしゃせいしょう)と言うわけにはいかないけれど、この松が今日まで護られてきたのは賞賛に値する。
昔の浜寺では「三光松」「羽衣の松」(衣懸けの松)「白蛇の松」「千両松」「黄金の松」「酔仙の松」「蓬莱松」といった名松が数多くあったんよ。
ところが今では、「鳳凰の松」が現代の名松とされているけれど、枝振りを見ながら、自分で松の名付け親になるのもいいかもしれない。
(別所やそじ・尼見清市共著 「むかしの堺」)
もちろんこれは、百人一首の「音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の 濡れこそすれ」(紀伊)の本歌取りで、園内に『惜松碑』として句碑が建てられている。 なにはともあれ、明治の元勲と云われる実力者、大久保が詠んだこの和歌は世間の大きな話題となり、この和歌がきっかけとなって松の伐採はただちに中止。
その年の太政官布告により浜寺公園は、わが国初の公園の指定を受け、松林は保護が計られることとなった。 この一事においても、大久保の人となりがわかりそうなものだが、さらなるエピソードを言うと、予算の付かなかった公共事業に、私財まで投じていたのだ。
しかし、晶子がこの浜寺で歌ったのはもっともっと激しいものであった。 もはやそれは、感激のあまり、おさまりのつかなかった鉄幹への恋心であったのかもしれない。
わが恋をみちびく星とゆびさして 君ささやけし浜寺の夕
ところが、そのときの登美子の歌が定かではないのだ。 ただ『恋衣』(明治38年)に、そのときの追憶歌がある。
その浜のゆふ松かぜをしのび泣く扇もつ子に秋問ひますな
その『秋』とは、父の意志で婚約せざるを得なかった登美子、そして晶子を加えた三人が、京都の永観堂に遊び、粟田山の辻野旅館で一泊したのだ。 おそらく、初めて出会う浜寺の会では恋心よりも、憧れが強く、晶子は身をまかすように強く出たけれど、登美子は身を控えて献(たてまつ)るような歌を遺したと思うのだが・・・。
髪ながき少女とうまれしろ百合に額(ぬか)は伏せつつ君をこそ思へ
そこで旅人が選んだのは、『恋衣』の最初の一首である。 この後の、ふたりの人生が窺えるとともに、この時代の多くの女性たちの運命(さだめ)とともに、“あわれ登美子”をおもわずにはいられなかった。
そして三日後の9日に、住吉大社の“蓮歌”となるのである。 かと言って、ここから引き返すわけにはいかず、高師浜(たかしのはま)へ・・・。
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