高師浜

                     

高石市(紀州街道)の地図
 
道の旅人は、浜寺公園を南西へ突っ切って、“仇浪橋”を渡る。そこから一筋目を東に折
れたら“伽羅橋”(きゃらばし)に出る。この二つの橋の下を流れているのが芦田川である。

この“伽羅橋”という地名をはじめて目にしたときは、古代の国を想像せずにはいられなかった。

 

つまり、「朝鮮半島の南端にあった大伽羅国(3世紀~6世紀中頃)が、百済と新羅に侵攻され、その大伽羅国の人々 がこの地にのがれて来て定住し、この橋を造った」と云うふうに・・・。

しかし、古代朝鮮半島の南端にあった国は加羅(から)である。

 

ところが、この加羅の国に、もう一つ併記されていたのが伽耶(かや)なのだ。

これと合わさって伽羅と表記され、『kara』と読んだら、この地がお伽の国になったという話はダメかな。


   高砂公園内の伽羅橋   
『泉州志』には、「昔、この橋板沈香なり、ある人これを売って千貫の銭を得た、ゆえに千
貫橋という」と記されています。
つまり、この沈香が伽羅(きゃら)と呼ばれ、熱帯地方でだけでとれる貴重な香木なんよ。

この木橋であった伽羅橋を、石橋に架け替えるため、当時の今在家村(羽衣)の吉次郎が発起人となって、慶応元年(1865年)10月に長さ11.1m、幅4.5mの花崗岩の石橋を完成させたんだ。

幕末の混乱した時代に、地域の交通整備に努力した人々の姿を示す、貴重な文化財が、昭和63年(1988年)芦田川改修工事により、市内高砂公園(高砂3丁目)に移転し、保存されているんよ。

ついでながら「ら」というのはおそらく、古代北九州で通用した言語のなかで「国」をさすことばではなかったかと思われる。
むしろその言葉の本場は古代朝鮮―いわゆる三国以前―にその南端地域にあった無数の小国家群の名称であろう。そのうち有名な国名としてはいまの釜山付近にあった加羅である。

     (司馬遼太郎 『街道をゆく』十一  虹の松原 肥前の諸街道 三 より


いつのまにか、魏志倭人伝の世界に入っていく。そしてこの高石(たかいし)市は、日本
書紀などでは“たかし”と発音され、「高志・高師・高脚」と表記された。また「高志」は“こし”
と呼ばれ、当地に百済系渡来人が住みついた場所である。また、式内社高石神社にその祖である王仁(わに)が祭られている。

式内高石神社 もしこの地に、伽羅の人が住み、百済の人々が住みついたとしたら、何故この地に韓(から)の人が?というふうに考えてしまう。
と云うことは、この地が開かれた海、拓かれた港であったということだろうか?開拓の地としてここに居住したとしたら、彼らは知識の高い技術集団であったに違いない。
行基もこの百済系の出身である。彼の灌漑事業は、その技術の高さを裏付けている。
あるいは海の暮らしに長けた集団であったのかもしれない。そしてその海岸線を守り、高師浜という地名が歌にまで詠みあげられるようになったのかも。

大久保利通の惜松碑の歌には百人一首にもある本歌があった。その歌が高石神社の
境内(判読不可)にある。

   音にきく高師浜のあだ波は
              かけじや袖のぬれもこそすれ

                           (祐子内親王家 紀伊)

 

この歌は1102年5月に催された「堀川院艶書合(けそうぶみあわせ)」で詠まれたそうです。「艶書合」というのは、貴族が恋の歌を女房に贈り、それを受けた女房たちが返歌をするという洒落た趣向の歌会です。
そこで70歳の紀伊に贈られたのが、29歳の藤原俊忠の歌でした。

 

  人知れぬ 思いありその 浦風に 

              波のよるこそ 言はまほしけれ

 

これに対する見事な返しに、若かった頃の紀伊のことを追いかけたくなるのを我慢して、旅人は次へと急いだけれど、この地については、もう少しだけ付け加えておかねばならない。

 

明治38年(1904)より始まった日露戦争では、多くの俘虜が日本に連行され、翌年1月
第4師団司令部により、ロシア人俘虜収容所が設置されました。その範囲は紀州街道の
北は芦田川から南は王子川に至る地域で、大部分が高石村の土地でした。

道の旅人は、文字通りこの地が韓露《カンロ(甘露)》の地であることを知る。それは高師
浜と言う地が、古人(いにしへびと)によって歌枕にまで高められたことでもわかる。