桂春団治の碑
江戸時代には、地方大名による参勤交代制により、京都以西の多くの大名は山陽道、西国街道、東海道などを経由して江戸に往来していたのである。
平安時代に京より九州大宰府に至る古道は山陽道と称され、後に京より西宮までは山崎道と呼ばれていた。
現在は国道171号線となり、一般的にこれが西国街道と呼ばれているが、旧来の道筋は大分に違っていて、道は広げられたり町並みの家々の多くは建て替わっているが、街道は割合によく残っている。(武藤善一郎『大阪の街道と道標』)
猪名川の支流の箕面川を渡る新開橋から、171号線ではなく南側の旧道を駆けるけれど、『弁慶の泉』は171号線沿いにある。
文治元(1185)年、追われる身となった源義経は、西国九州に向かうために、西国街道を逃れて河尻(尼崎) まで行く途中、多田蔵人行網や豊島冠者の武士団に前途をさえぎられたあるが、義経 とともに武蔵坊弁慶もよく奮戦し、この泉で喉の渇きを潤したとつたえれれている。
またこの泉は今在家村一帯の灌漑用水としても重要な役割を果たしてきた由緒ある泉である。
『池田市史跡名勝天然記念物』
源頼朝が1185年、諸国に守護・地頭を設置する権限を後白河に認めさせたことにより、鎌倉幕府が成立したと、最近ではみなされています。
守護というのは、律令体制の時の国司の権限を引き継いだものであり、これを任命する権利があるということは(守護を設置できる国に限っては)頼朝の支配下に組み入れることが出来た。
つまり、この時期を有力視するのは1192(イイクニ)年に征夷大将軍に任命される以前から、「実質的に源頼朝を中心とする支配体制が確立したといえるのではないか」ーこのように考えるからなのです。
つまり、武士の頂点である征夷大将軍こそが、日本の頂点ともいっても過言ではないのですが、1185(イイハコ)年あたりから、源頼朝は実質の幕府機能をスタートしはじめたと考えられ、守護地頭制度が確立し、中央集権社会として鎌倉での政治機能が形になった年と言えるのです。
弁慶は熊野別当湛増(たんぞう)子ともいわれ、五条橋で牛若に敗れて以降、衣川で討ち死にするまで義経と行動を共にした英雄である話は周知のとおり。
しかし、その名が登場する『平家物語』ではまだ個性が与えられていないが『源平盛衰記』『義経記』と時代が下るにつれて、その位置は高くい、『船弁慶』『勧進帳』『弁慶上使(じょうし)』などと言った演劇によって英雄に成長していった。
この「弁慶の泉」の近くに、受楽寺があり、そこにはなんと、『春団治の碑』が建立されているのである。
浪花恋しぐれ (歌:都はるみ・岡千秋、作詞:たかたかし 作曲:岡千秋)
♪芸のためなら 女房も泣かす
それがどうした 文句があるか
雨の横丁 法善寺
浪花しぐれか 寄席囃子
今日も呼んでる 今日も呼んでる
ど阿呆春団治♪
(セリフ)「そりゃわいはアホや 酒もあおるし 女も泣かす
せやかせ それもこれも みんな芸のためや
今にみてみい! わいは日本一になったるんや 日本一やで
わかってるやろ お浜
なんやそのしんき臭い顔は
酒や! 酒や! 酒買うてこい!」
初代 桂 春団治(1878年8月4日 - 1934年10月6日)を歌ったものだが、上方落語の落語家(はなしか)である。
従来の古典落語に、ナンセンスなギャグを取り入れ、大胆な改作をはかり、天才的かつ巧みな話術で、爆笑王として人気を集め、戦前の上方落語界のスーパースター的存在となった。
当時の先端技術でもあったレコードに落語を吹き込んだりしたが、「奇行」とも評された奔放な私生活は、のちに伝説化し、脚色も加えられ、小説・演劇・歌謡曲などの題材になった。
初代 桂 春団治(1878 - 1934):大阪市中央区高津町二番地、現在の高津宮附近に生まれ、小学校卒業後、丁稚奉公に出るが、長続きせず、十数軒を転々としたとされる。
やがて1895年、初代桂文我に入門、1903年10月、7代目桂文治(当時は2代目桂文団治)門下に移り、桂春団に改名。
名跡としては記録に残る限り2人目の春団治であったが、初代と扱われる。
胃癌により死去し、天王寺にある一心寺に骨仏として葬られた。
ところが、大阪大空襲で他の骨仏とともに焼失し、終戦後にそれらの骨仏から作られた第七期骨仏に、彼の遺骨が 含まれているという。
2代目 桂 春団治(1894年 - 1953):師匠・初代桂春団治ゆずりの爆笑型の本格的な滑稽噺を演 じ、初代をしのぐ人気を誇った。
大阪・朝日放送ラジオの開局記念特別番組『春團治十三夜』のために、放送日の数か月前に録音されたとされる テープ音源は、落語のライブ(会場にマイクを設置し、観客の反応を同時に収録する)形式の音源としては、東 西を通じて現存が確認できる最古のものである。
1934年11月、初代春團治の死後間もなく、「人気もあるし、先代に一番芸風が似ている」という吉本せいの薦めにより、2代目の名跡を襲名した。
手塚治虫は漫画家としてデビューする前の1945年頃、2 代目が地方での自主興行を行う際のポスター画を提供し ており、そのポスターは宝塚市立手塚治虫記念館に展示されている。
この2代目の最後が壮絶であるので、ここに記しておくが、1953年1月11日から、戎橋松竹で2代目の「病気全快出演特別興行」が開幕した。
その際に初代の所有していた「赤い人力車」伝説にちなみ、弟子の桂春坊に泥除け部分のみ赤く塗らせた人力車を仕立て、楽屋入りしたのだが、このときに冬の外気にさらされて風邪をひいてしまった。
1月20日、その特別興行の千秋楽で、観客からのリクエストに応えての『祝いのし』を演じている最中に気分が悪くなり噺を中断。 見台をつかみながら、「今晩のところは身体の調子が悪くて、もう噺がやれません。
今夜のところは春団治に祝儀をやったと思し召して、どうぞ次回、お開き直しをいただきまして、今夜はこれにて幕といたしたく」と口上を述べて、観客に中断を謝罪。 緞帳が下り切るとともに倒れ込み、「舞台で倒れるのは縁起が悪い」との古くからの幕内での戒めを守った(ただし、下りる直前は駆けつけた妻の寿栄が体を支えていた)。
そのまま回復することなく同年の2月25日早朝、天王寺区の大阪警察病院で死去したのだが、数時間に渡って「どんちょう、おかあちゃん」とうわ言を繰り返した最期だった。
三代目 桂 春団治(1930 - 2016):2代目桂春団治は実父、1959年3月、3代目桂春団治を襲名。
この3年前に初代春団治を描いた映画『世にも面白い男の一生 桂春団治』(監督:木村恵吾、主演:森繁久彌)が公開されたことがその背景にあり、襲名披露に先立ち、初代春団治の伝説にちなんだ朱塗りの人力車き、自らも赤系の着衣という「赤づくし」の姿で挨拶回りをした。
同年10月には襲名披露を兼ねる形で東京の寄席(鈴本演芸場・新宿末廣亭・人形町末廣)に出演した。
このように、当時の上方の落語家として早くから上方落語の関東への普及に務めた。
【桂春団治の碑】
桂春団治は、落語界の大名跡である。平成10年、三代目春団治が紫綬褒章受章に際し、初代・二代目へのご恩報謝の心を形に表したいとの思いから、「春団治の碑」建立を発願。 ことに、初代春団治の墓碑が戦中戦後の混乱もあり、所在不明であることを長く気にかけていたこともあって、この思いに拍車をかけた。話を打ち明けられた後援会と門弟たちは、かねてより三代目春団治と親交のあった受楽寺住職に相談したところ、境内地を提供する旨を示され、三代目春団治揮毫による「春団治の碑」建立に至った。
住宅の密集した中に、正光寺(住吉一丁目)という寺があり、境内には『夜泣きの中納言石』がある。
横には「中納言菅原峰嗣休憩岩」という石碑があり、中納言とはこの峰嗣(みねつぐ:793-870)のことで医師なのだが、当時皇太子であった大伴親王(786-840:のち淳和天皇)の身近に仕える。
承和2年(835年)従五位下に叙爵(じょしゃく)されたが、淳和(じゅんな)上皇は皇太子の頃身近に仕えていたことにより、峯嗣を侍医に任じて非常に寵遇したという。
貞観5年(863年)自ら老齢を理由に典薬頭を辞任し、摂津権守に転じて同国豊島(てしま)郡(池田市全域、豊中・箕面の大部分、吹田一部)の山荘に隠居し、俗世間との交流をせず、薬を飲んで養生に努めたという。
石は山荘内にある薬草園を見廻るとき、休息していたというのだが、その石の伝説が江戸時代に生まれたのだ。
つまり、隣地の麻田藩主が散策中にこの石を見つけ、庭石にと自邸に持ち込んだ。
ところが、藩主は毎夜悪夢に悩まされ、その上、石が「帰りたい、帰りたい」と号泣してやまなかった。
そこで、ついに元の場所、正光寺の近くにある札場の辻に捨てたというのである。
その石を、大正になってから、住職が境内に移すにあたり、村の若い衆が念仏を唱えながら運び込び、「夜泣き岩」とも呼ばれて今に至る。
亀之森住吉神社(住吉二丁目)は、社伝によると、此の辺りも大昔には、広々とした入海でしたが、第十五代応神天皇の頃、忽然として亀形の小島が現われてより、次第に土地が開けました。 第四十九代光仁天皇の御代(770)、里人の夢に「吾ハ住吉大神ナリ、汝等、吾ヲ信ズル者ハ、白箭(矢)ノ止ル処ヲ見ン」というお告げがありましたので、翌朝、里人等が集って、森に来てみると果して、お告げの通りでした。
里人らは驚き、畏み、かつ喜びまして、ここに住吉大神を奉し、 爾来「風雨順に民豊ナリ依テ郡名ヲ豊島ト呼ビ、其里ヲ豊島ノ庄ト謂ヒ、世々亀之森住吉神社ト云フ」とあり、豊島郡の総鎮守、大産土神(うぶずなのかみ)として崇敬されてまいりました。
社記によれば、後奈良天皇の大永6年(1526年)に社殿を造営し、正親町(おおぎまち)天皇の天正年間(1573年~1592年)の兵火で焼失すると、麻田藩主青木氏の祈願所となり社領が寄進された。
石橋(いしばし)は、池田市及び豊中市の地名であるが、東側の待兼山には大阪大学豊中キャンパスがあることから、学生街として賑わっている。
歴史ある高級住宅街が連続する北摂地域に位置しており、待兼山周辺や旧西国街道沿いには豪壮なる邸宅建築が多い。
石橋は古来から西国街道と能勢街道の結節点「瀬川宿」として栄え、両街道の交わるところに石の橋がかかっていたため石橋と呼ばれたとされ、その石材は現在池田市立石橋南小学校の前庭に展示されている。
1910年3月10日に箕面有馬電気軌道(後の阪急)が開通した際、当地が宝塚方面と箕面方面の分岐点となり石橋(現:石橋阪大前)駅が設置されたため、鉄道の結節点としても重要な役割を担うようになったが、石橋阪大前駅は、阪急の歴史で最も古い駅の一つに属する。
なお、1926年(大正15年)、山上に旧制浪速高等学校が設立され、現在もその後身の大阪大学石橋団地(通称豊中キャンパス)が立地し、そのため「待兼山」は阪大の代名詞となっている。 また1964年(昭和39年)、学内工事現場から出土した先史時代(新生代第四紀)のワニ・マチカネワニの化石でも有名だが、日本で発見されたワニ類化石第1号であり、完全に近い骨格であることが評価され2014年(平成26年)、国の登録記念物として登録された。
ほぼ豊中市のイメージが強いかもしれないが、景勝地としても古くから有名で、枕草子にも記されており、この締めくくりとして待兼山のことを記しておく。
津の国の 待兼山の 呼子鳥 鳴けど今来(いまく)と いふ人もなし - 古今和歌六帖
こぬ人を 待ちかね山の 呼子鳥 おなじ心に あはれとぞ聞く 肥後 - 詞花和歌集
夜をかさね 待ちかね山の 時鳥 雲井のよそに 一声ぞ聞く 周防内侍 - 新古今和歌集
夜もすがら 待兼山に 啼く鹿は 朧気にやは 声をたつらん 源俊頼 - 夫木和歌抄
歌枕として古歌に詠まれるとともに、大阪に残された数少ない里山である待兼山なので、登録文化財である待兼山修学館と大学会館は、待兼山山中の遊歩道になっている。