おわり坂
狭山の地名は、東の羽曳野丘陵と西の河泉丘陵に挟まれた地形によるのだが、石川や大和川といった、水量の豊富な河川から外れる河内国西部の丘陵地帯は、水量に乏しく灌漑に苦労していた地域で、現在も狭山池周辺には大小の溜め池が数多く点在する。
なかでも狭山池(大阪府大阪狭山市大字岩室)は、日本最古のダム式ため池(人工池)なのである。
とは言え、西高野街道は、狭山池より500m以上も離れており、むしろ、下高野街道や中高野街道の方が近くを走っているのだ。
この二つの街道は、いずれ走る予定なのだが、このおわり坂で下高野街道と合流するに及んで、何をおいても、狭山池について述べておかなくてはならなくなった。
飛鳥時代前期、朝廷によって西除川(天野川)と三津屋川(今熊川)の合流点付近を堰き止め築造されたとされるが、正確な築造年は明かでは無い。
飛鳥時代以前にも、第10代崇神(すじん)天皇は詔をしている。
農業は天下の大きな本(モト)であり、民の力を頼りにしているのだ。今、河内の狭山の埴田(ハニタ=粘土質の田)には水が少なく、その国の百姓は農業が出来ない。そこで沢山の池溝(ウナテ=農業用水路)を掘って、民の業(ナリワイ)を広めよう『日本書紀 第10代崇神』
また『古事記』の第11代垂仁天皇の段にも記されている。
印色入日子(いにしきのいりひこ)命(垂仁天皇の皇子)、血沼池(泉佐野市)又狭山池を作る
ところが、東樋(ひがしひ)の年輪年代測定結果から、狭山池博物館では、7世紀前半(第33代推古天皇)につくられたとしているのだ。
そして天平3年(第45代聖武天皇)に弾圧が緩められ、翌年には、狭山池の築造に、行基の技術力や農民の力量が大いに発揮されたのである。
まさに、国家により行基の事業が公認された時期でもあった。
なお久米田池は、干ばつに苦しむ農民と共に14年の歳月をかけて天平10年(738年)に完成させており、その間、狭山池の工事と重なっていたことになる。
つまり、師の道昭より培われていた行基集団には、すでに棟梁を中心とした土木・治水、及び宮大工のような職能集団が存在していたのではないだろうか?
その事業も、道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所もあり、摂津から播磨にかけては、五つの港を整備しており、さらに開湯伝説ものこしているのだ。
【摂播五泊】
河尻泊 - 尼崎市神崎町 ・大輪田泊 - 神戸市兵庫区(神戸港)・ 魚住泊 - 明石市大久保町・ 韓泊 - 姫路市的形町 室生泊- たつの市御津町室津。
しかし、ここで注目したいのは、崇神の事績と、その第3皇子であった垂仁の出来事なのだが、狭山池には三代にわたって関わっているのだ。
ところが、東樋(ひがしひ)の年輪年代測定結果から、狭山池博物館では、築造を7世紀前半(第33代推古天皇)につくられたとしている。
とは言え、『欠史八代』のあと、実在した可能性のある天皇だと言われているのが崇神であり、印色入日子に至っては、白鳥伝説のある英雄ヤマトタケルの伯父にあたる人なのだ。
さらに、推古の時代と言えば、聖徳太子が政をし、秦河勝が指揮したものと思われるから、古代大和朝廷にあって、狭山池は天下を揺るがすものであったかもしれない。
762年(第47代淳仁天皇)4月8日、河内国狭山池の堤が決壊し、修復に8万3,000人の労力を要した。 『続日本紀』
この時の太政大臣は藤原仲麻呂(706-764:恵美押勝)だが、もちろんその任務にあたるわけではない。
とすると、その知識があるのは吉備真備(695-775)なのだが、このとき彼は太宰府の任(754-764)についていた。
他に候補としては和気清麻呂(733-799)がいるが、彼の名が登場するのは、仲麻呂の乱(764年)以降である。
しかし、後の大和川の開削工事をするほどであるから、何らかの形で頭触っていたことは考えられる。
1202年になって重源が狭山池を改修することになる。
つつしんで、三世十方の諸仏・菩薩に申し上げます。
狭山池を修復する事
狭山池は、そのむかし行基菩薩が六十四歳の時、天平三年辛未の歳に初めて堤を築き、樋を伏せました。
しかし、年月を経るうちに、壊れてしまいました。
ここに摂津・河内・和泉三箇国の狭山池下流にあって五十余りの郷の人々の要請により、重源が八十二歳の時、建仁二年壬戌の歳に春より池の修復を計画しました。
二月七日にはじめて土を掘り、四月八日にはじめて石樋を伏せ、四月二十四日に工事を終えました。
その間、僧侶と俗人・男女(を問わず)・沙弥・小児・乞食・非人などが、(力を合わせ)自らの手で石を引き、堤を築きました。
これは、名誉と利益のためではなく、ひとえに公益のためです。
願わくば、(改修に参加したことで)仏の教えと縁を結び、(仏様が)この世の一切の生物をひとしく幸せにされることを。つつしんで申し上げます。 『重源狭山池改修碑』
1608年、豊臣秀頼の命で、奉行片桐且元が狭山池を改修しており、1620年には、狭山池の北堤、小堀遠州らにより普請(工事)開始される。
狭山神社(画像左)の創建は狭山池の築造以前といわれるが、南北朝の動乱により社殿が焼けたために室町時代に再建されたものと伝えられる。
狭山神社の境内に合祀されてある狭山堤神社(画像右)は、狭山池の守護神として奉祀されたが、合祀前はさやま遊園地(2000年閉園)の池に面した松林の中に鎮座していた。
ところで、狭山神社は天照皇大神と素盞嗚命を主祭神としているが、堤神社は印色入日子命(注*『日本書紀』では五十瓊敷入彦命)が祀られているのだ。
その五十瓊敷命は、菟砥川上宮(うとのかわかみのみや:大阪府泉南郡阪南町の菟砥川流域)にて剣1千口を作り、石上神宮(奈良県天理市)に納めており、古代史においてクローupされるべき人物のように思えるのだ。
北条氏の祖は、関東地方で勢威を振るった北条早雲である。
しかし天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏は滅亡してしまう。
戦後の処罰により、北条氏第4代当主・北条氏政と北条氏照は戦争責任を問われ切腹となったが、第5代当主・北条氏直は徳川家康の娘婿であるという所以から、北条氏規(北条氏康の五男で氏政、氏照の弟)は和平に尽力し、秀吉とも会見していたという経緯から特別に許され、高野山での蟄居を命じられた。
天正19年(1591年)1月から氏直は赦免活動を開始し、2月には秀吉から家康に赦免が通知される。
5月上旬には大坂で旧織田信雄邸を与えられ、8月19日には秀吉と対面し正式に赦免と河内及び関東において1万石を与えられ豊臣大名として復活した。
さらに小田原に居住していた督姫も27日に大坂に到着し、家臣への知行宛行、謹慎中の借財整理をおこなっていたが、11月4日に氏直は嗣子の無いまま30歳で死去した。
多聞院日記によると死因は疱瘡と記述されている。
氏直の死後、従弟で氏規の嫡子である北条氏盛が氏直の名跡と遺領の内4,000石を相続し、慶長3年(1598年)に氏規の跡を継いで1万1千石の大名となり、河内狭山藩主として12代(幕末)まで存続した。
当初、氏規の大坂屋敷があった久宝寺町(大阪市中央区)で政務を執り行っていたが、第2代藩主・氏信の元和2年(1616年)、狭山の地に陣屋を営んだ。
ところが、狭山藩と狭山池の関わりについての資料はない。
そんな中、慶長13年(1608年)、豊臣秀頼(1593-1615)の命で、奉行片桐且元が狭山池を改修し、1612年には、狭山池の水下区域は約5万5千石、80か村に及んだ。
さらに元和6年(1620年)には、狭山池の北堤、小堀遠州(1579-1647)らにより普請(工事)が開始されている。
その遠州とは、豊臣秀長に仕え、秀吉・家康と主君を変えたが、建築家・作庭家・書家、さらに遠州流茶道の祖でもある。
秀頼の場合、あたかも神社仏閣に寄進するかのように、狭山池の改修工事を務めたのかもしれない。
そして遠州においては、元和3年(1617年)に河内国奉行になっており、大坂天満南木幡町に役宅を与えられていた。
ところが、1619年には 近江小室藩に移封(いほう)されており、掛け持ちしていたことになるのだ。
1637年には、陣屋の上屋敷が完成し、茱萸木(くみのき)新田の開発が始まる。
1699年、岩室・今熊村、狭山藩領から天領となる。
1704年、大和川の開削によって狭山池の水下区域、約3万4,000石、50か村になる。
1705年、茱萸木新田が天領から館林藩領(秋元領)になる。東野村の80石が丹南藩領(高木領)に分郷。
1709年、狭山藩陣屋の下屋敷が完成。
1721年になってやっと、狭山藩がもと天領であった狭山新宿と狭山池を支配。
ところがまたしても、1749年、狭山池が幕府の直接支配に復する。
1835年、狭山池の西樋大規模な伏替を水下の村々の自普請で行い、1857年、狭山池の西除大破。水下の村々の自普請で修復、1859年に完成するも、狭山池の水下区域、約3万3,000石、35か村に減少する。
1904年、狭山池西除崩壊個所復旧。1926年、狭山池の大正・昭和の改修が始まり、石樋管(お亀石)を発掘。1964年、狭山を干ばつが襲い、狭山池などの水が干上がる。1988年、狭山池ダム化工事着工。 2001年、狭山池ダム化工事完了し、府立狭山池博物館開館。
1,400年の歴史を刻む、日本最古のダム式ため池である狭山池と、一体化した親水空間を有する、土地開発史専門の狭山博物館は、安藤忠雄氏の作品である。
土木遺産の保存と公開を目的としており、建物内部に巨大な堤の断面を丸ごと移築展示するなど、特徴的な展示がなされている。
エントランスから建物入口までに水庭があるほか、壁面に滝が設けられ、古代にも未来にもつなぐ親水空間にしているのだ。
この大阪狭山市にも、岩室の地名があり、何となく古代の、石の文化を感じさせてくれるが、道の旅人には気になる地名がもう一つあった。
それが茱萸木(くみのき)で、何かしら艶めいていて、秘めたものを感じずにはいられないのだ。
とは言え、その由来は、鎌倉時代に書かれた国の公文書「太政官符(だじょうかんふ)」に、このあたりの地名が「佐志久美岡(さしくみのおか)」だという記載があり、「久美」が「茱萸」となったらしい。
ところで話は前後するのだが、何の疑問もなく坂道を下った道の旅人であったが、上るにあたっては、まるでヒルクライムの練習場のごとくで驚きであった。
その坂道の由来は、ため池や道路など、土木工事の専門技術者の、「尾張衆」にちなむと言われているのだが・・・。