豊臣秀吉が愛した、「天野酒(あまのざけ)」と呼ばれるお酒は、天野山金剛寺でつくられた僧坊酒である。
わざわざ、お酒の醸造に専念するように命令したとも言われているが、17世紀には製造が中止されていたという。
その銘酒を復活させたのが西篠蔵(1718年創醸)だが、昭和46年から現在に至っており、以前は但馬杜氏が、大阪酒らしい濃醇な酒質を造っていたところ、あまり売れず、南部杜氏となり淡麗な酒質に切替えてから、名実ともに人気になった。
烏帽子形八幡は、素盞鳴命・足仲彦命(仲哀天皇)・神功皇后・応神天皇を祀ってる。
創建時期は不明ながら、河内で戦乱が続いた室町時代(1338~1573)には、すでに存在していたようで、それも、烏帽子形城の鎮守として、 楠小二郎により作られたという。
この小二郎のことがよくわからないが、正行の弟、正時の別名を二郎(尊卑分脈)としており、その弟なら小二郎、すなわち正成の三男正儀(まさのり)のことではなかろうか?
楠木正儀(1333?~1388?)は、父・兄と並ぶ南北朝時代最高の名将で、南朝総大将として北朝から京を4度奪還。
また、鑓(槍)を用いた戦術を初めて普及させ、兵站(へいたん)・調略・後詰といった戦略を重視し、日本の軍事史に大きな影響を与えた。
一方、後村上天皇の治世下、和平派を主宰し、和平交渉の南朝代表を度々担当。
後村上天皇とは初め反目するが、のち武士でありながら綸旨の奉者を務める等、無二の寵臣となった。
主戦派の長慶天皇との不和から、室町幕府管領細川頼之を介し北朝側に離反。
外様にも関わらず左兵衛督・中務大輔等の足利将軍家や御一家に匹敵する官位を歴任した。
三代将軍足利義満に仕え、幕府の枢要・和泉・摂津住吉郡(合わせてほぼ現在の大阪府に相当)の二国一郡の守護として、南朝臨時首都天野行宮を陥落させた。 頼之失脚後、南朝に帰参、参議に昇進、399年ぶりの橘氏公卿として和睦を推進、和平派の後亀山天皇を擁立。没後数年の元中9年/明徳3年(1392年)に南北朝合一が結実。二つの天下に分かれ約56年間に及んだ内戦を終結させて太平の世を導き、その成果は「一天平安」と称えられた。
烏帽子形城は、楠木正成が築城した楠木七城のひとつで、ほかには千早城(千早赤坂村)・下赤坂城(千早赤坂村森屋)・小根田城(上赤坂城の一部)・桐山城(上赤坂城の一部)・嶽山城(富田林市)・金胎寺城(富田林市)がある。
しかも、上赤坂城の支城の山城であり、元弘2年(1332年)の正成再挙兵後、新たに築いた当城が楠木氏の城の一つとなり、幕府軍に対抗した。
元弘3年/正慶2年(1333年3月8日)に発生した上赤坂城の戦いでは、平野将監入道と楠木正季(楠木正成の弟)が、鎌倉幕府の阿蘇治時・長崎高貞・結城親光らと戦った。
閏2月1日(3月17日)に上赤坂城は落城したものの、幕府軍を苦しめ、千早城で発生した千早城の戦いと合わせて、元弘の乱での後醍醐天皇勝利に大きく貢献した。
標高182mの烏帽子形山の山頂部に位置し、北と西は断崖でその足元には石川、東側は河岸段丘が広がり天見川に落ち込んでいる。
よって、東西北の三方は川に囲まれ、南方のみを開けた構造で外堀の役割を果たしているのだ。
付近には、京と堺と高野山を結ぶ東高野街道と西高野街道が高野街道に合流する地点があるほか、河内国から和泉国へ抜ける河泉街道、紀伊国とを結ぶ九重(くじゅう)道、大和国へは大沢越えの道などが分岐しており、交通の要衝であった。
高向 玄理(たかむこ の くろまろ:不明~654)は、飛鳥時代の学者で、名は黒麻呂とも記されている。
冠位大錦上(たいきんじょう)高向氏(高向村主・高向史)は応神朝に阿知王(あちのおみ)と共に渡来した七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・高)の一つ段姓夫(または尖か)公の後裔で、魏の文帝の末裔を称する渡来系である。
一説では東漢氏(やまとのあやうじ)の一族とするが・・・。
高向の名称は河内国錦部郡高向(たこう)村(現在の河内長野市高向)の地名に由来しているのだが、遣隋使小野妹子(生没年不詳)に同行する留学生として聖徳太子(574-622)が選んだと伝えられており、推古(554-628)天皇16年(608年)に南淵請安(しょうあん:生没年不詳)や旻(みん:生年不明ー653)らと共に隋へ留学する。
なお、留学中の推古天皇26年(618年)には、隋が滅亡し唐が建国されたのだが、舒明(593-641)天皇12年(640年)に30年以上にわたる留学を終えて、南淵請安や百済・新羅朝貢使と共に新羅経由で帰国し、冠位1級を与えられた。
大化元年(645年)の大化の改新後、旻と共に新政府の国博士に任じられ、大化2年(646年)遣新羅使として新羅に赴き、新羅から任那への調(課税の一種)を廃止させる代わりに、新羅から人質を差し出させる外交交渉を取りまとめ、翌647年(大化3年)に新羅王子・金春秋(602-661)を伴って帰国し、金春秋(後に新羅第29代武烈王)が人質として日本に留まることとなった(この時の玄理の冠位は小徳)。
また大化5年(649年)には、八省百官(はっしょうひゃっかん)を定めたりしており、国博士であるにもかかわらず、何故か渡航を繰り返しているのだ。
その白雉(はくち)5年(654年)遣唐使の押使(おうし)として唐に赴くこととなり、新羅道経由で莱州に到着し、長安に至って3代目皇帝・高宗(628-683)に謁見するものの病気になり客死した。
大江時親(不詳-1341)は、若き頃の楠木正成(1294-1336)に兵法(闘戦経)を教えたという伝承があるのだが、六波羅評定衆を務めていたにもかかわらず、河内に邸宅を持っていたというのだ。
しかしその場所は、隠遁生活をしているような山の中にあり、この時期、公務から離れていたとしか思えない。
『闘戦経(とうせんきょう)』は、平安時代末期に成立したとみられる、現存する日本最古の兵法書である。
当書を著し、代々伝えてきたのは、古代から朝廷の書物を管理してきた大江家であり、鎌倉幕府の時代に、源頼朝から実朝の三代にわたって、兵法師範として伝授してきた一族である。
当書によれば、「永い歳月を経て、虫や鼠にかわりがわり噛まれ、その伝えを失い、何人の作述か(具体的には)知られておらず、大祖宰(大江)維時(888-963)卿の作とも、大宰帥匡房卿(1041-1111)の書なりともされる」
大江 維時(おおえ の これとき):醍醐天皇・朱雀天皇・村上天皇の侍読(じどく)を務め、
「三代の侍読」と称された。
また、唐に留学して中国の兵法『三略』を学び、それを『訓閲
集(きんえつしゅう』という120巻の書物に記している。
ところが、大江家と多田源氏に伝わったとされる軍学書だ
大江 匡房(おおえ の まさふさ):兵法にも優れ、源義家(1039-1106)の師となったという
エピソードもある。
前九年の役の後、義家は匡房の弟子となり兵法を学び、 後三年
の役の実戦で用い成功を収めた。
なお匡房は、自分が意識しているのは維時のみであると述べ
ている。
中国兵法書『孫子』における、「兵は詭道なり(謀略などの騙し合いが要)」とした思想は、日本の国風に合致せず、いずれこのままでは中国のような春秋戦国時代が訪れた際、国が危うくなるといった危惧から、精神面を説く必要が生じた為、『孫子』の補助的兵書として成立した旨が、『闘戦経』を納めた函(はこ)の金文に書かれている。
作述されてからは、大江家38代大江広元が、鎌倉幕府・源氏三代に仕えたが、北条家の治世となってからは遠ざけられ、結果として理解しやすい『孫子』・『呉子』が武家社会の間で普及し、『闘戦経』を学ぶ者は一部の武家に限られ伝えられ、のちに、41代大江時親は金剛山麓に館を構え、当地周辺の豪族に兵法を伝授するようになったというわけ。
建武中興(1334年)後、時親は安芸国へ行き、毛利家の始祖になったとされる。
866年(貞観8年)10月、大枝音人(811-877)が姓を改め、大枝から大江へと改姓した。
その理由は、枝(分家)が大きいと、本体である木の幹(本家)が折れる(下克上)事にも繋がり不吉である、とのことであった。
しかし、大枝姓は桓武天皇より与えられたものであることから、全面的に変更するわけにもいかず、読み方はそのままで漢字表記のみの変更に留めた。
また、大きな川(江)の様に末永く家が栄えるように、との意味があるという。
大江匡衡(まさひら:952-1012)の孫に、平安時代屈指の学者であると共に河内源氏の源義家(八幡太郎:1039-1106))に兵法を教えたとされる大江匡房(まさふさ:1041-1111)がいる。
1184年(元暦元年)に内源氏の棟梁の源頼朝(1147-1199)に仕えた大江広元(1148-1225)は、頼朝の覇業を内政面で支える。
頼朝が鎌倉幕府を開くと広元は幕府の中枢を昇りつめ、広大な所領を得る。
広元は子らに領地を分配したことから武家の大江氏として毛利氏をはじめとする武家の祖となる。
また大江氏には優れた歌人や学者が多く、朝廷に重く用いられた。
中古三十六歌仙と呼ばれる和歌の名人三十六撰に、大江氏から大江千里、大江匡衡、大江嘉言(よしとき:不明-1009)、女性では和泉式部がおり、大江雅致(まさむね)の娘である。
大江匡衡の妻である赤染衛門もその一人で、おしどり夫婦としても知られおり、仲睦ましい夫婦を評して、匡衡衛門と呼ばれていたという。
奥河内と呼ばれる河内長野で、飛鳥時代の学者である高向玄理と、中世の学者である大江時親のふたりに出会うことができた。
道の旅人にとって、隋(唐:32年)・新羅(1年)・唐(その年に客死)へと、3回も渡航して最後に客死した国博士でもあった玄理の冠位は、大錦上でありかなり信用もされ、大臣にも近かったのではないだろうか?
その晩年、第2次の翌年に、第3次遣唐使の長として任務に就いた理由がわからないのだが、唐との交流も然ることながら、高句麗をけん制して、新羅と百済の後押しをする必要があったのではなかろうか?
そしてまた時親が、『孫子』『呉子』の中国の兵書と共に、大江家伝来の兵書『闘戦経』が、正成に伝授され、正行へと受け継がれたのだが、ついに晩年の正儀において、南北朝合一の兆しが見え、没年数年後になって、内戦を終結させたのだ。
太平の世を導いたその成果は「一天平安」と称えられたことを考えれば、ひょっとしたらこの楠木流こそ、自然の摂理を説いた書『闘戦経』の結実したもののように思えてくる。