天野山金剛寺

高台を通るので金剛山脈から和泉山脈の眺望も素晴らしい天野街道は、一部を除いてほとんどの区間が丘陵の木立の中や田園地帯である。 その長閑な細道の中を抜けると、広い道に出て、道の旅人も里へ下りるだけであり、下里(しもざと)総合運動場が見えてくるのだ。

 

こんな山の天辺に、田圃があろうとは想像もしなかったが、それはまことに“天野”の名にふさわしい天の一角に開けた広大な野原であった。もしかすると高天原(たかまがはら)も、こういう地形のところをいったのかも知れない。(白州正子『かくれ里』)

 

ここでいう天野の里は、かつらぎ町南部、標高約450mの高野山麓に位置しており、その所在地は和歌山県伊都郡のことだ。

しかし、この河内長野においても、天野山金剛寺が女人高野と呼ばれるように、高野浄土を目指す女人たちにとっても高天原に近かったかもしれない。

青賀原神社の丹生大明神は、桓武天皇の延暦三年九月十四日、紀州かつらぎ 天野の里からこの地に奉還安置されたもので、この神は 天照大神の弟神である月読之尊と伝えられている。

この丹生大明神は、空海(弘法大師)と関係深く、空海が高野御開発まじかにあった頃、泉州槇尾寺に向かい下里谷の茅原を通行中のことである。

急に黒雲が舞い下り、天地が鳴り響き、 道端の澤より頭九つの大蛇が出現、火を放って空海に飛びかかった。

 

空海は衣の袖で大蛇を振り払い、不思議な念仏を唱えると、黒雲の中から白と黒の犬を連れた狩人が現れ、矢の先が千筋に分かれる弓で大蛇を退治した。

 空海はこの狩人に『汝は何人ぞ』と聞けば、『我は一宇金輪(仏頂尊)なり、空海宗祖の御命を助けるため丹生大明神に化身し出現した』という。

この狩人こそ、後に空海を高野山に導いたとされる狩場明神(高野明神)なのだが、その丹生大明神は、大蛇の死骸に大力をもって土をかけ墓を築くと、その姿を消した。

空海はこの墓を「九頭神山」とし『南無阿弥陀仏』と念佛を唱えたことからこの場所を南無阿弥陀仏(なはいだ)として今なお、その地名を残し大蛇と共に語り継がれている。

                       (下里村丹生大明神・九頭神山由来記 要約)

なお、青賀原神社創建は、平安後期の治承4年と伝えられ、現在の本殿は江戸時代初期に造営されたもので、祭神は丹生大明神・高野大明神・久爾津神・稲荷大明神と伝えられいる。

しかもその神々が、高野山の麓‟天野の里”からであるとしたら、天野街道からいたるこの神社は、さしずめ高野山の入り口にあたるのであろう。

仏は常に いませども 

現(うつつ)ならぬぞ あわれなる

人の音せぬ 暁に 

ほのかに夢に 見え給ふ

(後白河法皇編『梁塵秘抄』)

 

この今様の碑は、京都永観堂にあるのだが、なにしろ、後白河上皇は、熊野行幸を34回も行っているのだ。

期間から計算すると、一年に一度ではきかない回数です。

後白河院の『梁塵秘抄口伝集』には、初回、2回目、12回目の熊野詣を書き残しているんよ。

その1回目の熊野詣は、1160年、後白河院34歳のときのこと。前年12月には平治の乱が起こっています。

 

 私は永暦元年10月17日より精進を始めて、法印覚讃(かくさん)を先達にして、23日に出発した。25日、厩戸王子の宿で、左衛門尉であった藤原為保(ためやす)は、自分が連れていた先達の夢に王子が現われ、「この度お参りになったのは嬉しいけれど、古歌を歌ってくれないのが残念だ」と、おっしゃったということを言った。

 「もとより道中の王子社では、歌舞の奉納などすることをするということだが、御所さまの今様などはあってしかるべきものを」などと言う近臣もあったが、
 「あまり下賤の者が多いのにオープンなのも」などと言う近臣もあって、そのままになっていたが、この夢の話を聞いて、あれこれ思案せずに歌うことにして、厩戸を夜遅く発って、長岡王子に夜のうちに参った。

 

 そのときに、連れだっていた平清盛(のちの太政大臣。当時はまだ大弐と呼ばれていた)にこの夢のことを相談してみたところ、「そのようなことがございますなら、それももっともなことです。とやかく申すまでもございません」というようなことを清盛は答えた。

清盛は内心、「雑人などがたいへん数多くいるので、どうか」と、思っているうちに、ふらふらと寝入ってしまったところ、夢うつつに、正式の礼服をした先払いの者を連れた唐車(からぐるま。最上の牛車)が王子社の御前に止まるのを見た(唐車には、王子が乗っているのでしょう。王子とは熊野権現の御子神。熊野権現の分身だと考えればよいと思います)。

院の歌を聞いているのだろうかと思って、はっと目を覚ましたところが、今様を院が歌っている最中であった。その歌がこれ。

 

熊野の権現は
名草の浜にこそ降りたまへ
若の浦にし ましませば
年はゆけども若王子

 

 この話を清盛は資賢(すけかた)卿に語って、驚かれたことだった。先の先達の夢と後の清盛の夢。この二つが思いあわされて、人々は現兆だと言いあっていた。11月25日、幣を奉り、経供養・御神楽などを奉納しおわって、礼殿にて、私の音頭で、古柳から始めて、今様・物様まで(古柳・今様・物様、みな今様の種類の名前らしいです)数を尽くす間に、次々に琴・琵琶・舞・猿楽を尽くした。初めての熊野詣のときのことである。

都から熊野までは往復で約720キロ、ひと月近くかかる行程は、たとえ立派な装備を調え多くの従者を引き連れたとしても決して楽なものではありません。

ところがその回数は30回を超え、多くのエピソードを残しているのに比べ、高野山行幸の話題は少ないのは何故だろう?と道の旅人は金剛寺へと向かった。

天野山 金剛寺(以下、金剛寺)は、奈良時代、天平年間(729~749年)に聖武天皇〔701-756〕の命により、当時の高僧である行基(668-749)によって開かれたといわれています。

また平安時代には、空海(774-835)が修行した聖地といわれています。

ところが、その後400年のあいだに荒廃してしまいます。

(画像は金堂三尊:剛三世明王・大日如来・不動明王)

しかし、平安時代(794-1185)の終わりに高野山より阿観〔あかん〕上人(1136-1207)がこの地に住まわれ、後白河上皇(1127-1192)とその異母妹の、暲子(しょうし)内親王(八条院:1137-1211)の篤い帰依と庇護を受けました。

そして阿観上人は、高野山より真如親王筆の弘法大師像を拝受し御影堂を建立し、弘法大師御影供の法要を始められると共に、金堂(本堂)、多宝塔〔たほうとう〕、楼門〔ろうもん〕、食堂〔じきどう〕などの伽藍〔がらん〕を再興してゆきます。

その縁をもって金剛寺は、八条院の祈願所となり、再興当時から弘法大師様をお祀りしており、女性が弘法大師様にお参りができた。

また、八条院の侍女大弐局(浄覚尼)と妹の六条局(覚阿尼)が阿観上人の弟子となり、二代続けて院主〔いんじゅ=住職〕となったことから、「女人高野〔にょにんこうや〕」と呼ばれるようになりました。

 

鳥羽法皇崩御後の保元2年(1157年)6月に落飾するも、法名は金剛観としたが、この出家は既に仏門に入っていた母・美福門院の勧めによるものという。

その後、父母の菩提のための仏事や社寺参詣に明け暮れる日々を送っており、父母の資産の大部分を継承した暲子内親王は同時代人から「鳥羽院の正統を継ぐ嫡流の皇女」として認識されていた。

この八条院こそ、その後も異母兄である後白河法皇の院政を影から支えており、平清盛でさえも彼女の動向を無視することは出来なかったという。

二条天皇が彼女を准母(じゅんぼ)として自らの正統性を示し、また後白河院も幾度となく八条院御所へ御幸していることからも、彼女の存在が重く見られていた事実がわかる。

治承4年(1180年)、猶子(ゆうし:養子でなく、子の如)である以仁王が反平氏の兵を挙げた際、八条院が密かに支援しているのではと言われ、実際、八条院は以仁王の子女(生母は八条院女房)を自身の御所で匿っていた。

清盛も社会的な反響を恐れて、結局は以仁王の男子を出家させることを条件に、女院の行為を不問にせざるを得なかった。

画像:八条院像(安楽寿院蔵)

この金剛寺に、北朝の初代天皇である、光厳(こうごん)天皇(1313-1364)の分骨所があり、初めてこの天皇の数奇な人生を知ることができた。

というのも、第96代後醍醐天皇の失脚(元弘の乱:1331)を受けて皇位に就いたのだが、鎌倉幕府の滅亡(1333)により復権(建武の新政)した後醍醐は、「朕の皇太子の地位を退き、皇位には就かなかったが、特に上皇の待遇を与える」として、光厳の即位は否定したのだ。

つまり、北朝6代後小松天皇を以て、100代を継承するまで、光厳院以下5人の天皇(北朝)は歴代天皇には含まれていない。

とは言え、南朝に対し足利尊氏は、光厳上皇院政の下、光明天皇(光厳の弟)を擁立し、建武式目を制定して幕府を開設(1336)した。

というわけで、ふたりの天皇が並立する南北朝時代が始まり、光厳院政も積極的に政務を展開した。

そんな中、吉野に拠った後醍醐は病に倒れ、後村上天皇に譲位(1339)し、翌日、吉野金輪王寺(きんりんのうじ)で『朝敵討滅・京都奪回』を遺言して崩御した。

 

玉骨ハ縦令(たとえ)南山ノ苔ニ埋マルトモ、魂魄ハ常ニ北闕(ほっけつ)ノ天ヲ望マン」                                 (『太平記』)

 

この後醍醐の師であった夢窓疎石は、尊氏や光厳院の師でもあり、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めた。

こうしたことから、天竜寺の落慶供養が、光厳院の勅裁により、足利尊氏を開基とし、夢窓疎石が開山として、後醍醐天皇七回忌(1345年)に行われた。

正平3年(1348年)10月27日に第一皇子である崇光天皇が即位し、光厳は治天として引き続き院政を行った。

このとき、叔父花園上皇の皇子直仁親王が光厳の猶子として皇太子に立てられたが、「光厳上皇宸翰(しんかん)置文」の中で、光厳は直仁の実の父親であると告白しているのだ。

この間ほとんど逼塞(ひっそく)状態にあった南朝方だったが、幕府内の対立が観応の擾乱(1350-1352)に発展すると息を吹き返した。 

正平6年(1351年)11月、将軍尊氏は優位に立つべく南朝後村上天皇に帰順し、崇光は天皇を廃され、直仁は皇太子を廃されて北朝は廃止された(正平一統)。

明くる正平7年(1352年)2月、京都を奪回した南軍は、光厳・光明・崇光の三上皇と廃太子直仁親王を拘禁する。

その後一統が破れると、撤退する南軍によって三上皇と直仁は山城国男山(京都府八幡市)、さらに南朝本拠地である大和国賀名生(奈良県五條市)に拉致された。

三上皇と直仁は正平9年(1354年)3月に河内金剛寺に移され、塔頭観蔵院(下左図)を行宮とされ、10月になると後村上天皇も金剛寺塔頭摩尼院(下右図)を行宮とした。


正平17年(1362年)9月、法隆寺に参詣した。これに関連して、法皇が大和・紀伊へ行脚に出て、吉野で後村上との再会を果たしたという話が『太平記』・『大乗院日記目録』に見える。かつての敵味方の交歓を描くこの話は、軍記物語『太平記』を締め括る名場面として知られるが、そのまま史実とみることは出来ない。

 

この三四年の先までは、両統南北に分かれてここに戦ひかしこに寇(あた)せしかば、呉越の会稽に謀りしが如く、漢楚の覇上に軍立(いくさだ)てせしにも過ぎたりしに、今は散聖(さんじやう)道人(だうにん)とならせ給ひて、玉体を麻衣草鞋(まえさうあい)に窶(やつ)し、鸞輿(らんよ)を跣行(せんかう)の徒渉(とせう)に代へて、遥々とこの山中まで分け入らせ給ひたれば、伝奏いまだ事の由を奏さず先に直衣の袖を濡らし、主上いまだ御相看(しやうかん)なき先に御涙をぞ流させ給ひける。

ここに一日一夜御逗留あつて、様々の御物語ありしに、主上、「さても只今の光儀(くわうぎ)、覚めての後の夢、夢の中の迷ひかとこそ思へて候へ。たとひ仙院の故宮を棄てて釈氏(しやくし)の真門に入らせ給ふとも、寛平(くわんへい)の昔にも准(なぞら)へ、花山の旧き跡をこそ追はれ候ふべきに、尊体を浮萍(ふへい)の水上に寄せて、叡心を枯木(こぼく)の禅余に付かせ候ひぬる事、いかなる御発心にて候ひけるぞや。御羨ましくこそ候へ」と、尋ね申させ給ひければ、法皇御涙に咽びて、しばしは御詞をも出だされず。           『太平記』

晩年は丹波山国荘の常照皇寺(京都府京都市右京区京北井戸町)で禅僧としての勤めに精進し、正平19年(1364年)7月7日、この地で崩御(享年54)した。

 

老僧の滅後、尋常の式に倣ひ、以て荼毘等の儀式に煩(わずらい)作すること莫れ。其れ山民村童等、聚沙(じゅしゃ)の戯縁を結ばんと欲して小塔を構ふること尺寸に過ぎざるは亦之を禁ずるに及ばず。 

       【光厳院遺戒(いかい)】

 

 光厳院が出家を遂げ、仏道に入るきっかけとなった河内金剛寺に、寺の請いによって分骨所が設けられ、ここでも手厚く護られている。

 

花園院の監修のもと、光厳院が親撰した『風雅和歌集』(1346-1348)がある。

ひょっとしたら、抗争も穏やかな時代であったかもしれないが、その歌に南北朝時代の院をうかがい知ることができるであろうか?

 

つばくらめ簾の外にあまたみえて春日のどけみ人影もせず  (129)

更けぬなり星合の空に月は入りて秋風うごく庭のともし火  (471)

夕日さす落葉がうへに時雨過ぎて庭にみだるる浮雲のかげ  (730)

さむからし民のわらやを思ふにはふすまの中の我もはづかし (880)

恋しとも何か今はと思へどもただ此の暮をしらせてしがな  (1328)

夜烏は高き梢になきおちて月しづかなるあかつきの山    (1629)

 

それが足利尊氏の執奏により、後光厳天皇から綸旨がくだった『新千載和歌集』(1356-1359)になると、南朝の軟禁下を経て、京に戻ってきた時期かもしれない。

 

春の夜のおどろく夢は跡もなし閨(ねや)もる月に梅が香ぞする(新千載54)

 

室町幕府第2代将軍足利義詮の執奏により後光厳天皇綸旨が下った『新拾遺和歌集』(1363-1364)は、もはや晩年の頃である。

 

くれはてて色もわかれぬ花の上にほのかに月のかげぞうつろふ(新拾遺126)

鶯のわすれがたみの声はあれど花は跡なき夏木立かな    (新拾遺198)

 

さらに『光厳院和歌集』になると、いつ頃とは言えないが、院の生涯を感じさせる歌もありやなしやと思うばかりである。

 

しのぶべき昔はさりな何となく過ぎにし事のなぞあはれなる(御集152)懐旧

ただしきをうけつたふべき跡にしもうたてもまよふ敷島の道(御集153)述懐

 

晩年は丹波山国荘の常照皇寺(京都府京都市右京区京北井戸町)で禅僧としての勤めに精進していたとは思うのだが、次の歌で締めくくってみた。

 

舟もなく筏もみえぬおほ川にわれわたりえぬ道ぞくるしき (御集154)

 

道の旅人にとっても、後醍醐天皇の裏に隠れていた、北朝の光厳天皇に出会えたことは、思いもよらぬことであった。