岩室山観音院

東区と中区の間をぬけ、西高野街道の分岐点、岩室(堺市南区)・今熊(狭山市)に至る。

左が西高野街道、右が天野街道で、このまま天野街道に入り、 河内と和泉の国境の尾根道を行く前に、南区のことが気になりだした。

というのも、【岩室】の地名に魅かれたわけだが、新しい土木技術をもった大陸からの渡来人がこの付近に住みついて、古墳に必要な埴輪や祭祀用陶製器具の製造を担当しており、5 - 6世紀代の須恵器の窯跡が数百基発見されているのだ。

一説には、天野街道の起点は、岩室山観音院(堺市南区岩室)の大門からで、終点が天野山金剛寺山門と言われている。

この観音院は、天平年間(729年-749年)に行基による開基と伝わり、阿弥陀如来を本尊とし厳室山極楽寺と号していた。

空海が滞在した際、十一面観音を彫り当寺に安置し、寺号を現在の岩室山観音院と改めたとされる。

当初の大伽藍は度重なる戦火で灰燼に帰したが、阿弥陀如来や十一面観音はその度に難を逃れ、慶安3年(1650年)に3度目の本堂を建立し、現在に至る。

本尊は、観音堂の厨子内に安置される秘仏で、毎年八月十日の「千日祭」の時にのみ開扉されています。

頭上面、天衣の一部を除いて髻(もとどり)から足下の蓮肉までをヒノキの一材から彫出し、内刳(うちぐり)を施さず、頭髪・眉目以外は素地のまま残していることから、本像は代用材を用いた檀像(だんぞう)彫刻であると考えられます。

古様な技法や、比較的動きの少ない姿態、背面の裳の表現などから平安時代のなかばごろの制作と考える説がある一方で、やや面長な顔立ちや、正面の裳の表現を宋風の反映と見て制作時期を鎌倉時代までさげて考える説もだされています。

この観音院から次に向かったのは、泉北ニュータウンに隣接する小谷(こたに)郷土館(堺市南区豊田)である。

小谷氏の家伝によると、池禅尼(平清盛の継母) は、源頼朝・義経兄弟が平清盛に捕えられ、殺されそ うになったとき、幼少で可哀相だといって命乞いをし、頼朝は伊豆に、義経は鞍馬寺に送られました。

頼朝・義経が成人して京に攻め入り、平家一門を西国へ走らせましたが、池禅尼の実子頼盛とその子孫(池氏)だけは、京に呼び戻し、昔からの平氏の居住地(現在の京都国立博物館から六波羅密寺)に住まわせたと云われています。

それにつけても、源氏の世では、京都に居づらく、仁和寺の寺領である若松荘(堺市大庭寺・太平寺・和田・豊田・栂・片蔵・田中・鉢ヶ峯・富蔵・釜室・畑・逆瀬川)の地頭として、赴任してまいりました。

小谷家の始祖平氏頼晴(池氏、万五郎ともいう)は、鎌倉初期にこの地(若松荘)に地頭として赴任したのが始まりと言われています。

最初に栂山城(堺市南区原山台)を築き、上神左近将監政員と名を改め、その長子頼宗はすぐに鎌倉幕府の命令で和泉国政所に勤め、曽孫の政有の時に、現在の小谷城一帯に城郭の地割りをして城が完成しました。

居城のひとつである小谷城は、高さ約80メートルの独立した山でした。

 

十三世紀(鎌倉時代)中頃、自然のままを城としてつかわれ、堺で一番古い城址の一つです。

しかも、栂山城(西山城)・豊田城(東山城)と三つの城を併せ持ち、まとめて鼎城(かなえじょう)とも呼ばれていました。

南北朝時代には南朝方で、八代目上神権之進則常の時、楠正成の軍に加わり、南朝のために戦い、笠置の合戦で 戦死し、九代目上神左近将監常信も、父に従い武勇にすぐれ、南朝のために各所に転戦し軍功をたてました。

その時に小谷城は、千早・赤坂の南朝方から大雄寺(浜寺)に通信を送る「狼煙火」の中継所となり、また一方天野山行宮を守る裏木戸のかための城としての役目もありました。

戦国時代には根来党であった為、織田信長勢と戦い、天正三年(1575)鼎城は落城したと言われています。

その後、小谷氏は大坂夏の陣に徳川方として参戦し、功労をたて郷士となり、上神谷地域を治めていた伯太(はかた)藩渡辺家に仕え庄屋も務めました。

近代に入り泉北地域は、明治維新、戦後の農地解放、高度成長時代と、激動の時代を経て、大きく変貌しました。

小谷家39代方明(みちあきら)は、地域の歴史について家伝や古文書などを研究し、消え行く文化財・民俗資料の研究に力を注ぎました。

方明氏は昭和5年に「和泉郷土文庫」、昭和46年に(財)小谷城郷土館の前身である小谷城郷土館を設立しました。

平成3年方明氏が他界したのち、その意志を継ぎ財団法人の許認可を受け、同6年に登録博物館に、平成17年には、主屋と門長屋・土蔵が登録有形文化財となり今日に至っております。

まさかここに源平が潜み、南北朝が息づいていたとは思わなかったが、ここから2km弱の桜井神社(堺市南区片蔵)へと赴く。

桜井神社は朝鮮半島の百済から渡来してきた桜井宿禰(さくらいすくね)の一族が、祖先を祀った事に始まるとされる。

桜井氏は当地に須恵器(すえき)の技術をもたらし、それ故この周囲一帯は、かつて須恵器の一大産地であった。

 

飛鳥時代の推古5年(597年)になると、それまでの祖神に八幡神が合祀され、現在に通じる桜井神社の信仰が形作られた。

別名、上神谷八幡宮(にわだにはちまんぐう)とも呼ばれ、その拝殿は、通常見られるような拝殿とは違い、馬道(めどう)と呼ばれる土間を設け、建物内部を通り抜けられるようにした特異な形状で、割拝殿(わりはいでん)という。

桜井神社拝殿の建造年は定かではないが、建築技法は鎌倉時代のものを示しており、同じく鎌倉時代に建てられた石上神宮摂社出雲建雄神社の拝殿と共に、割拝殿としては現存最古級の遺構。

 

なお、神谷(にわだに)という地名は、遡ること670年、現在の鉢ケ峯寺に創建された鉢峰山閑谷院長福寺(現:法道寺)がはじまりとされています。 

古い時代には神のことを「みわ」といい、神が降りてこられた伝説があるこの地域は「上神郷」(かみつみわのさと)と呼ばれ、「みわのさと」が「にわのさと」となり、明治22年の町村制で北・中・南に分かれますが、明治27年には、合併して、同じ上神郷の同じ谷筋にある村であることから、上神谷村(にわだにむら)となりました。

さらに付け加えるなら、石津川、和田川の浸食によってできた谷は、それぞれ、上神谷(にわだに)、和田谷(にぎただに)と呼ばれ、古くからの集落が形成されていた。

国の無形民族文化財である「上神谷のこおどり」は、毎年秋祭の10月の第1日曜日、"国宝"櫻井神社拝殿前で奉納されます。

「こおどり」は、もともと鉢ヶ峰の氏神だった国神社(堺市南区上神谷字鉢峯)の雨乞いの神事だったと言います。

「こおどり」の名も、乞う踊り、鼓踊り、子踊りなどさまざまな解釈があるようですが、明治43年に国神社が櫻井神社に合祀され、それ以来、櫻井神社で豊作や家内安全などを願う踊りとして伝えられています。

 

音頭取りの歌に合わせて、ヒメコと呼ばれる魔除けの紙花を背負った鬼と三尺棒を持った天狗4人を中心に、一文字笠紋付の太鼓打ちや扇振りが外踊りで囲みます。

踊りを後世に伝えていくために、「鉢栄会」を30年ほど前に発足し、堺こおどり保存会と鉢ヶ峰こおどり保存会のバックアップを受け、現在に踊りが受け継がれています。

さらに南へ3km弱で、妙見山感応寺(堺市南区富蔵)がある。

感応寺の伝承によれば、645年(大化元年)、法道仙人が北辰(ほくしん、北極星)の霊示を受けて刻んだ、妙見菩薩の像をこの地に安置したのが感応寺の起こりであるという。

その後は尊星降臨(そんしょうこうりん)の霊場になったという。

妙見堂の側壁には、﨔の一刀彫の彫刻が施されており、堂内の格天井(ゴウテンジョウ)にはいろんな紋所が描かれている。

地元では、所在地の地名をとって「上神谷の妙見さん」と呼ばれている。

摂津国の能勢妙見 、河内国の星田妙見とともに「大阪府三大妙見」とも称されるが、交通の便が悪いことなどから知名度は低い。

鞠つき唄に「一に生駒の聖天さん、二に上神谷の妙見さん、三に讃岐の金比羅さん」と唄われたほど、江戸時代には隆盛を誇ったという。

毎年8月16日に行われる「万灯供養」は、多数の灯籠に火がともり幻想的な風景がみられる。 

そして1km余りを南に進めば、地元では‟畑の宮さん”と呼ばれている八幡神社(堺市南区畑)がある。

上神谷地区は昔から米作りが盛んだったが、山あいの畑地区では水田を作ることができず、畑ばかりだったから「畑」と称ばれるようになったという。

こんもりと緑が繁った丘の上に、畑八幡神社(天祖神社)が今も鎮座しているが、明治四十一年(1908)三月五日櫻井神社に合祀されたことが記録に残っている。

つまり、上神谷上条の総鎮守は片蔵の別宮八幡宮(櫻井神社)で、九ヶ村のうち鉢峯寺村を除く八ヶ村で古くから宮座を形成していた。

 

八幡神社の前の道は河内長野や狭山方面から妙見へ参る参詣道で、往時は多くの人で賑わい、しかも八幡神社のすぐ西で、上神谷街道と合流しているのだ。北へ行けば妙見、南へ進めば下里の青賀原神社を経て女人高野として名高い天野山金剛寺に至る。     【古社寺巡拝記より】

 

この天祖神社(八幡神社)から、2.5KMほど西に向かえば法道寺(堺市南区鉢ケ峯寺)である。

法道寺によれば、白鳳10年(670年)に法道(空鉢)によって開基され、当地に鉢を納めたことにより、山号を鉢峯山とした。

「食堂(じきどう)」は鎌倉時代後期に建てられ、同時代のものでは府下で金剛寺と2棟のみで大変貴重なものです。

「多宝塔」は屋根の丸瓦の正平23年(1368年)に作ったという銘文から、南北朝時代中期に建てられたと考えられ、食堂とともに重要文化財に指定されている。

 

同じく重要文化財の十六羅漢像は、漢画の系統に属する作品で、宋画の写しと考えられています。

また、楼門に安置される「金剛力士像」は、解体修理中に吽形(うんぎょう)から発見された墨書木札で、鎌倉時代の弘安6年(1283年)に造像されたことがわかり、同時代から室町時代にかけて興隆した法道寺と、上神谷(にわだに)地域の仏教文化の精華を、現在に伝える大変貴重なものです。

「阿弥陀三尊図」は赤・緑を基調とした濃厚な色彩と金泥を多用する点、朱の衣に配された細かい金泥円文、独特な桃色を施した体などの特徴がみられる高麗仏画で、日本に伝来しているなかでも最も古い時代に作られたものと思われ、金剛力士像とともに市の指定有形文化財になっています。

なお平安時代前期には、空海をはじめ最澄や円仁などがこの寺に参篭(さんろう)したという。 ところでこの法道寺の開基も、感応寺と同じく、法道仙人なのだが、加西市一乗寺を中心に活躍したという伝説上の仙人で、中世には、播磨(兵庫県)一帯の山岳寺院を開創した人物にみなされていた。 十一面観音信仰を広める一方で、陰陽道の術もわきまえていたことから、その系列から蘆屋道満という強力な陰陽師が出現し、のちに安倍晴明と対決した。 仏教と陰陽道を巧みに結びつけた呪術者のひとりと思われるが、民間の布教活動は盛んで、医薬を用いて病気治しを行っていたともいわれている。 法道は方道とも書かれており、播磨からさらに能登(石川県)の石動山まで、法道仙人の奇蹟伝説が語られている。

法道仙人は、天竺の霊鷲山(りようじゆせん)の五百持明仙の一人で,孝徳天皇(在位645‐654)のころ日本に渡来したという伝説上の人物。

〈飛鉢の法〉をよくし、空鉢仙人ともいわれる。

鎌倉末期から南北朝期になると、播磨の有名山岳寺院20ヵ寺を開いたという伝承が成立し,江戸時代には、播磨はもちろん、但馬・丹波・摂津にいたる、諸寺の縁起類に名前がみられる。

その法道仙人の像は、摩耶山天上寺(神戸市灘区)にある。

それにしても、この法道仙人と役行者の、なんと似ていることだろうと思いつつ、道の旅人はこの項を終わることにした。