五箇荘
堺の人々は、3月25日を「はるごと」とよび、仕事を休んで藤井寺の道明寺天満宮へ歩いてお参りしていまし た。
堺から12km、朝早く長尾街道を通り、夕方、瓢箪に入れたお酒をのみながら、ごきげんで帰り、五箇荘の 子どもたちに、おみやげのかんざしを配ってくれたそうです。
せんど(船堂) 歩いて まだ 蔵之前
足に まめづか(大豆塚) できました
提灯 持って 向井村(今の田出井町あたり)
北花田駅前イオン(堺市北区)を建てる時に見つかった東浅香山遺跡は、2000年前の弥生時 代人の狩場だったことがわかっています。
この地域は、古代摂津国住吉郡に属し、奈良時代の「条里制」の長方形の田畑 の跡が確認できるなど古くから開発された土地です。
五箇荘村(ごかしょうむら)は、かつて大阪府にあった村で、現在の堺市北区の一部にあたり、小学校名などにその名残りが見られる。
それも、大鳥郡浅香山村、大豆塚村、奥村、北花田村、船堂村、万屋新田、花田新田、庭井新田が合併しての、大鳥郡五箇荘村が誕生したんだもんね。
「五箇荘」の名は、15世紀後半の記録にあらわれており、宝永元年(1704)に大和川が付けかえられるまで、五 箇荘は我孫子や杉本、庭井まで含みました。
織田信長が堺に対して矢銭20000貫の税を課した際、堺の会合衆は三好氏の力を背景に徹底抗戦の姿勢を見せたが、今井宗久(49歳)は津田宗及とともに会合衆を説得。
織田信長は堺を直轄地とし、今井宗久は摂津住吉郡に2200石を与え、今井宗久を五箇荘の代官とし、我孫子に鉄砲工場をつくりました。
五箇荘小学校の西側に位置する【心念寺】(画像左)は、創建年代など詳しいことはわかりませんが、 延宝5年(1677)の「大念仏寺四十五代記録并 末寺帳」によれば「真念寺」と記載され、もと浄 土宗であったと伝えられています。
心念寺に所蔵されている釈迦の入滅の様子を 描いた仏涅槃図は、描き方や絵具の様子から室 町時代まで遡る作品と考えられ、寺の前身となる 中世寺院の存在が考えられます。
その北側には【曼陀羅寺】(画像右)は、創建にかかわる詳しい記録はありませんが、当村の旧家、三好家の古文書に よると寛文6年(1666)にはすでに奥村(大鳥郡五箇荘村に合併)の檀那寺として護持されていました。
本尊の阿弥陀如来坐像は比較的角張った輪郭と 小づくりの目鼻立ちで、江戸時代の特徴をあらわ しています。
さらに北へ進むと、華表神社なのだが、「華表」と書いて「トリイ」と訓ずる例が散見され、古くから日本の鳥居の起源ではないかとする説が存在する。
文献である和名類聚抄や節用集では華表を「鳥居(トリイ)」と読ませているが、鳥居の起源を中国に求めた誤解としている。
宮本町にあるその華表神社は、北花田郷七村の惣社で、誉田別命・素盞鳴命・宇賀之 御魂命の三神を祀っています。
神社に伝えられている縁起には、神功皇后をはじめ、空海や後醍醐 天皇などが諸神を迎え祀ったという伝承が記されており、古い由緒がう かがえます。
織田信長に領地を没収され、慶長の兵火でもかなりの被害を受けまし た。
かつて、神宮寺(神社に付属する寺院)であった雨宝山金龍密寺に は七つの子院がありましたが、江戸時代には無量寿院を残して廃絶し たようです。
この華表とは、中国において、宮殿や墓所などの前、また大路が交わる所に立てられる標柱。
漢の丁令威が死後千年たって鶴に化して帰郷し城門の華表に止まったという故事(捜神後記)で有名であり、和漢朗詠(1018頃)上には、「晨(あした)に瓦溝に積って鴛色を変ず、夜華表に零ちて鶴声を呑む〈紀長谷雄〉」 〔捜神記‐巻一八〕とある。
詠太神宮二所神祇百首和歌(1468頃)にも、「斎主之(いはひぬし)神の昔ぞ遙成鳥居を守る吾も老いにき (斎主の神とは、花表を守り玉ふとぞ)」
道の旅人は、街道に戻るために、その神社の南側をまっすぐ戻ったところには、【愛染院】があった。
寺伝によると、天平年間(729年-749年)に行基により開基され、普光山池浦観音寺と称したのが起源とされる。
天正年間(1573年-1593年)に織田信長の兵火によって諸堂が焼失したのだが、 慶安5年(1652年)に現在の位置に今の本堂が建立。
「本当かどうかはわかりませんが、ご近所に伝わる話では、火災が迫った時に観音様を池の中に投げ入れて避難させて、そののちに引き上げたのだというのです」
寺伝では、本尊の観音像は、船堂村(現在の堺市北区船堂町)の道専居士が造った土室に安置されていたそうです。
文化2年(1805年)に本堂の大修理が行われ、文化2年の棟札には「普光院観音寺愛染院」と記載されており、もともとは観音寺の塔頭として愛染院が存在したのではないかと思われます。
「昔はこのあたりは旧国では泉州ではなく河内でした(昭和38年まで南河内郡大字蔵前)。このあたりに領地があった秋元但馬守(秋元家は幕末には上野館林藩を治める)が愛染院への信仰が篤かったらしく、大旦那として文化2年の棟札(むなふだ)に名前が残っています」
道の旅人は、府道大阪高石線を渡り長尾街道を駆けると、勝手大明神の碑があり、その路地へ向かうと、堺市北区蔵前町に鎮座する小さな神社があった。
蔵前村は、もと河内国八上郡南花田村の枝郷で、「蔵 之前」とも呼ばれていて、現在、須牟地曽根命、勝 手大明神、毘沙門天を祀っている須牟地曽根神社は、 蔵前村の産土神であり、平安時代に編纂された『延喜 式』神名帳に記載されている摂津国住吉郡の須牟地曽 根神社を当社に比定する説もあります。
須牟地曽根命は、住吉大神の子神であり、神功皇后6年に神社が創建されたという伝 承も、長尾街道にほど近いこの地が、住吉津から上陸した人や物の交流に関わる場所で あったことを推測させます。
江戸時代は勝手大明神として信仰を集め、明治28年(1895) に焼失、金岡神社に合祀されましたが、その後氏子の方々によって再建されました。
『延喜式』神名帳の攝津國住吉郡に「須牟地(すみぢ)」と付く神社が三社記載(中臣須牟地神社・神須牟地神社・須牟地曽根神社)されており、その内の一社「須牟地曾禰神社」が、通称:勝手大明神なのだ。
『住吉大社神代記』(住吉大社に伝わる古典籍)にも「子神」に「須牟地曾禰神」とあり、住吉大社と関係が深かったようです。
また「中臣住道神(すむちのかみ)」や「須牟地曾禰神」と併せて「件の住道神達は八前なり」とあり、「八前」が何を指すのかはっきりしませんが、スムチなる神は全て合わせると八柱あったということでしょうか。
「スムチ(スムヂ)」というのは、住吉津から東に延びていた古代の道である「磯歯津路(しはつみち)」のことであると本居宣長が唱えて以来、この説が有力なようです。
『日本書紀』の雄略天皇十四年の記事に、住吉津に到着した呉の賓客のために道を造り磯歯津路を通わせ呉坂と名付けたとあります。
当社の東方に「喜連(きれ)」という地名がありますが、これは呉(くれ)が訛ったものだと言われており、先の記事に説得力を持たせています。
この説に従うならば、スムチの神々はこの「磯歯津路」を守護する交通の神ということになるでしょう。
一方でシハツミチがスムチと訛るものなのか、一部の学者が説くように住吉(スミノエ)のスミに何らかの意味があるのならスムチもこれに関連してくるのではないか、等いくつかの疑問が残ります。
とはいっても、この長尾街道は住吉への道であり、飛鳥へ通じる道であり、大神(おおみわ)への道だったかもしれないと道の旅人は思うのであった。