阿保(あおん)茶屋跡
南新町3丁目のふれあい人権文化センター前に「布忍橋」「天保三年壬辰七月 更池村」と力強く彫られた標石が見られます。
これはもともと、更池村が天保3年(1832)7月に西除川に架かる長尾街道の布忍橋北西詰に建てたものです。
ここには、寛政8年(1796)12月に更池村の多聞院(真言宗)の僧龍昌が造った惣井戸も掘られていました。
長尾街道が西除川を渡る布忍橋西詰(南新町1丁目)に石組の井戸が保存されており、もともとは、東側の河川敷にありましたが、西除川の改修で今の新町図書館前に移されたものです。
正面に「更池村惣井戸 寛政八丙辰年十二月」とあり、内面には「多聞院龍昌建立之」と刻んでいます。
更池村の多聞院の龍昌が江戸時代後期の寛政8年(1796)、村人の共同井戸としてつくったことがわかります。
井戸は、堺と大和を結ぶ長尾街道沿いに設けられましたので、往来する人々や荷車をひく牛馬の口も潤したかもしれません。
井戸をつくった龍昌の多聞院は、長尾街道の南側にある真言宗寺院(南新町1丁目)です。
以前は河内西国四番霊場として信仰され、その木札が参道入口や本堂(薬師堂)に掛かっています。
境内には、四国八十八カ所や西国三十三カ所札所の本尊石仏も見られます。
寺伝では、平安時代後期の堀河天皇の寛治3年(1089)、向井村に布忍寺を建てた永興律師が開いたとあります。
寺号は堀河天皇(1079-1107)勅願の多聞天を安置したことから名づけられ、山門横に「人皇七十三代堀河天皇勅願 多聞天王按置」の石碑が建っています。
本尊は室町時代の薬師如来で、当時期の膳や密教法具も残されており、歴代住職の無縫塔が何基か残っており、その中に龍昌の墓があります。
正面に「当寺第五世阿闍梨龍昌」、裏面に「享和二壬戌天二月十日寂 行年四十二才 遺子龍宗建立」と刻んでいます。
井戸建立時の寛政8年は、四代住職の龍淵が在世していましたが、龍昌が多聞院を代表して社会事業に貢献したようです。
先代の龍淵は寛政12年(1800)8月、62才で亡くなり、龍昌墓の隣りにその墓が現存しており、 龍淵・龍昌・龍宗時代は多聞院が寺観を整えた時期で、天明5年に「過去帳」を記して寺史を明らかにしたのも龍淵でした。
江戸時代、更池村の庄屋をつとめていた田中家(南新町1丁目)に残る次の史料から布忍橋の変遷がわかります。
明和9年(1772)3月の「河州丹北郡更池村明細帳」に、「一、橋 壱ヶ所 狭山池西除川筋奈良海道筋ニ掛ケ申候」とあります。
18世紀後半、西除川を渡る奈良海道ともよばれていた長尾街道に橋が設けられていました。
すでに、延享3年(1746)11月の同村明細帳にも農民が造った「板橋壱ヶ所」があり、これを村が修復したのです。
のち、天保14年(1843)7月の同村明細帳には、「一、石橋 壱ヶ所 幅六尺長サ拾六間 狭山池西除川筋奈良海道筋ニ御座候 天保弐年卯九月廿五日 御公儀様江御願奉申上 石橋相掛ヶ申候」と書かれています。
このことから、幕府に願い出て、天保2年(1831)9月25日に幅約1.8メートル、長さ約29メートルの石橋が架け替えられたことがわかります。
石橋の設置までは、延享3年の記述や明治5年(1872)2月の同村明細帳に「往古板橋之処、天保二年卯年(中略)石橋相掛ヶ申候」とあるように、板の橋だったのです。
幕末に立派な石の橋ができたので、村の人たちは新たに橋名を付け、記念石を建てようと願いました。
嘉永元年(1848)7月の田中家の「永代過去帳」は、庄屋として村政にあたっていた当主(9代)の田中清右衛門紀定が頭取となって、布忍橋と名付けたと注記しています。
石橋は、近代化とともに長尾街道の拡幅で撤去され、現在では西除川の改修などで幅20メートル、長さ30メートルの鋼橋となり、昭和63年3月に竣工されたものです。
上田1丁目の松原郵便局前に、正面には「ちちかみはし」、両側面に「長尾街道」、裏面に「明治四十三年二月修繕、大阪府」と彫られた道標があります。
堺と大和を結ぶ長尾街道に建てられたモニュメントですが、「ちちかみはし」には、次のような悲しい伝説が残されています。
「遠い昔、京から来た高貴な身分の母親が愛児に乳房を含ませていました。子どもは母親の乳に満足してスヤスヤと眠っていましたが、急にむずかり、口に含んでいた乳房を歯でかみきってしまいました。このため、母親は愛児を抱いたまま亡くなったのです」
新堂1丁目の松原中学校方面から北流してきた今井戸川は、近鉄河内松原駅の西側線路をくぐります。
やがて、上田1丁目の長尾街道にぶつかる字「中門」で西流する本流と東流する支流に分かれていきます。
江戸時代、「中門」には堰樋が設けられていました。
そこは、阿保村の海泉池から三宅村の大海池に至る用水の取水掛口でした。
東と西に分岐する水流の堰高を定める享和元年(1801)7月の分量石がいまも残されています。
灌漑領域の上田村や三宅村の人々が立ち会って決めた碑文も見られます。
「中門」から西へ200メートル進むと先の道標があり、ここに「ちちかみはし」が架けられていたのです。
愛児が母親の乳房を歯でかみきった所でしたので、橋の名となりました。
川は街道に平行する南側では暗渠となっていますが、松原警察署の東側からは北へ向きを変えます。
「ちちかみはし」の悲しい伝承は、人々の哀れをさそい、「ちちかみはし」と「中門」の真ん中、街道の南側に住吉神社が祀られており、上田村反正山地区の氏神ですが、村人は祭神の住吉大神と共に、亡くなった母親や乳をかみきった愛児を歯神として同社に合祀したのです。
このため、住吉神社は歯神社ともよばれるようになりました。
住吉神社は、室町時代の永禄年間(1558~69)の創建と伝えており、柴籬神社(上田7丁目)の神宮寺であった観念寺の法印秀盛が勧請しましたが、明治初年に柴籬神社に合祀され、現在は社務所の真向いに祀られています。
なお、「中門」の名は五世紀前半、反正天皇が都とした丹比柴籬宮の中門があったという伝承からつけられ、柴籬宮の推定地である柴籬神社に合祀された歯神社では、歯(は)にちなみ、毎年八月八日八時八分から祭礼が行われています。
松原市は古代から南北二つの池(狭山池、依網池)に挟まれて二つの川(西除川、東除川)と五つの街道(竹ノ内、長尾、住吉、下高野、中高野の各街道)を持ち、水陸両街道と農耕民族の基盤である水の確保によって記紀の時代から栄えた豊かな経済と生産能力をもつ最高立地にあったのです。
長尾街道と中高野街道の交差する四つ辻は、要衝の地であり、江戸時代にあっては、長尾街道の南は丹北郡松原村上田で、北側は阿保(あお)村でした。
もっとも、上田村の本村は今の河内松原駅の南側で、阿保村の集落も阿保神社周辺に固まっていました。
このため、江戸時代の絵図には、交差点の南側は「上田出郷」、北側は「阿保村出在家」と記されているものもあります。
四つ辻は、両村の入り口ですが、商いや参詣人の往来が盛んでしたので、休憩する人たちのために茶屋などが並んでいました。
そのため、交差点付近は阿保茶屋と呼ばれ、集落は阿保茶屋村と称されることもありました。
明治時代以降も、阿保茶屋は松原村の交通の中心地として、地域の記念碑や村内・街道を守る地蔵堂が再建されなど、コミュニティの場としても活用されました。
大塚山古墳は、羽曳野市・松原市にある古墳で、形状は前方後円墳だが、 実際の被葬者は明らかでない。
宮内庁により「大塚陵墓参考地」(被葬候補者:第21代雄略天皇)として陵墓参考地に治定されている。
全国で大仙陵古墳(大阪府堺市)、誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市)、上石津ミサンザイ古墳(大阪府堺市)、造山古墳(岡山市)に次ぐ第5位の規模の巨大古墳である。
ところが、雄略天皇陵は、丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)としており、宮内庁により大阪府羽曳野市島泉8丁目にある「島泉丸山古墳(高鷲丸山古墳)」・「島泉平塚古墳(高鷲平塚古墳)」に治定されている(古墳2基を合わせて治定)。
それぞれ直径75メートルの円墳、一辺50メートルの方墳なのだが、宮内庁上の形式は円丘としているのだ。
大王家では、河内大塚山や見瀬丸山の巨大前方後円墳を6世紀後半ごろに築造して以後、前方後円墳はつくられなくなり、方墳や八角形墳形式に変わっていく。
うっそうとした森に覆われた造山には、江戸時代初期までに集落が形成されるようになりました。
丹北郡大塚村といい、のち墳丘の南北主軸を境に、西大塚村(松原市)と東大塚村(羽曳野市)に分かれました。
古墳の最高所(後円部)には、氏神として天満宮(大塚社)も祀られていました。
享和元年(1801)発刊の『河内名所図会』には、「天満宮此塚の上にあり。実は王子の霊を祭るとぞ。大塚村等の(うぶすながみ)とす。祭りは六月廿五日」と紹介しています。
また、古墳の前方部東側には融通念仏宗来迎寺末の西誉寺と浄土真宗本願寺派の正定寺も建っていました。
明治41年(1908)10月7日、天満宮は近くの柴籬神社(上田7丁目)に合祀され、「合祀前後記載簿」(大阪府神社庁蔵)には、天満宮の氏子を28戸と記しており、西大塚の人は早くに古墳を出ていたので、東大塚の戸数であろう。
大正14年(1925)9月21日、政府は大塚山古墳を皇室のお墓として陵墓参考地と決めたため、古墳内にあった東大塚村全戸の墳丘外への立ち退きが昭和3年までに完了するよう命じられた。
東大塚村の人々は、先祖から受けついだ墳丘内の土地を離れていき、今、濠の東側に沿って南北に並んでいる南恵我之荘7~8丁目の集落が転居した新村です。
この北側にも一津屋古墳があり、そこを城砦(三好駿河守)とした戦いが繰り広げられたことを記して、道の旅人は羽曳野に向かうことにした。
三好長慶が畿内を支配しようとした戦国末期の16世紀半ばごろ、河内でも激しい戦いがくりひろげられました。
長慶は、高屋城主(羽曳野市古市)で河内守護の畠山氏を討つため、一津屋のすぐ東北の若林(松原市)に天文16年(1547)陣所を置き、永禄3年(1560)には進軍しています。