中国街道(山陽道)

西國地方と大坂との交流は、物資輸送の面では、瀬戸内海を利用した船便による方法が多く取られていたのであるが、人の往来の面からは、四国は別として、九州・中国から京・大坂への旅は山陽道に拠るのがふつうであった。

この山陽道には、之というった難所もなく、特に大坂には西国諸藩の蔵屋敷が置かれそれぞれの藩士が詰めていたことなどのため、各本藩との財政面でのかかわりも深かったのである。

さらに江戸時代より以前には境興屋大坂各地における内外物質の交易、それに伴う商人の往来、それらの利権に関係を持つ武家などの活動も見られていたわけである。

しかし、徳川幕府の政権が確立し、江戸に政治の中心が移ってからの西国大名による参勤交代は、西国街道に拠っていたようで西宮から分かれて大坂北部を得て京に入るので、、大阪の中心部は通っていない。

つまり大阪は、上代が幕府直轄で居るのみで、経済面では重要地であるのに反し、政治面からはいささか影は薄くなったと言える。

山陽道は、大坂の中心であった大坂城大手口の東にあたる高麗橋が起点で、大坂より諸街道の出発点としての高麗橋については、江戸時代に幕府が管理した十二公儀橋でも、高麗橋は一番格式が高く、西詰には幕府の制札場があった重要な地点であり、大坂での街道の起点としてふさわしいところである。(武藤善一郎『大阪の街道と道標』)

難波橋

難波橋(ライオン橋)が今のような立派な姿になったのは、市電事業によってであり、以前の難波橋は現在の堺筋より一つ西側の筋に架かっていたが、市電の第三期線として計画され、堺筋線に移された(1915)のである。

堺筋は大正時代に繁栄を極めていて、大阪証券取引所(1912)が南側にあり、五代友厚 とともに建っている。

こうして中之島を通り抜け、東洋陶磁美術館のコーナーを曲がって鉾流橋(ほこながしばし)を通り抜けるのだ。

中之島公園

 中之島の東側に位置する中之島公園は、都心部の貴重な公園となっており、バラ園が有名で、またイベントも数多く行われており、中之島まつりやOSAKA光のルネサンスは毎年開催されている。

なお、中之島の河川沿いを一周する形で中之島遊歩道(中之島歩行者専用道)が設けられている。

また、大阪市役所前を基点として吹田市の万博記念公園まで自転車専用道の北大阪サイクルラインが設けられている。

大阪市役所南側の歩道にはみおつくしプロムナードという愛称がついていて、OSAKA光のルネサンスでは「中之島イルミネーションストリート」となる。

敷天神社

社伝によれば、平安時代の弘仁13年(822年)、摂津国菟餓野に嵯峨天皇が行幸し現在当社がある神山町の地にあった神山の近くに頓宮を構えたことが縁となり、皇子の源融が天皇崩御の後に追悼のためこの地に七堂伽藍を興して太融寺を創建、次いで承和10年(843年)に嵯峨天皇を祀る社として「神野太神宮」を創建した、これが当社の始まりであるという。

昌泰4年(901年)1月、右大臣菅原道真が無実の罪で大宰府に左遷させられる際にこの地に着いたところ、一本の紅梅が今を盛りと咲き匂っており、しばしこの梅を眺めるため、船の艫綱(ともづな)をたぐりよせて即席の座席としたことが「綱敷(つなしき)」の名の由来であるという。

香具波志神社

賀具波志大社と称していたが、後には加島神社・加島大明神とも称し、織田信長の時に稲荷神社と改め、明治維新後は今の名に戻した。

『太平記』によると、正平6年(1351年)頃には、楠木正成の三男正儀は加島明神の森に駒をとめ、社前に祈願という記述がある。

また、天文18年(1549年)の江口の戦いで、三好長慶が戦勝祈願に大鳥居を寄進していると言い、あの『雨月物語』の、上田秋成寓居跡碑もある。

近松記念館

 尼崎市久々知の廣濟寺に、世界に誇る劇作家「近松門左衛門」(1653年~1724年)が眠る国指定史跡の墓所があります。

近松翁は晩年、廣濟寺をたびたび訪れ、明治の末まで近松部屋と呼ばれる仕事部屋があり、ここで執筆活動をしていたと伝えられており、この機会に、近松の里に寄り道をした。 

契沖阿闍梨

契沖生誕の比定地は、尼崎市立中央図書館南側とされ、摂津国川辺郡尼崎(現在の兵庫県尼崎市北城内)で生まれたという。

とりわけ『万葉代匠記』と『和字正濫鈔』は、実証的学問法を確立して国学の発展に寄与するなど、古典研究史上において時代を画するものであった。

万葉仮名についていえば、古代の日本で日本語を表記するために漢字(真名)の音を借用(仮借)して用いられた文字なので、今もって解釈の違いを引きずっているかも。

西宮神社

西宮にある今津では、どうしても、小説『阪急電車』(有川浩)を紹介したのは、阪急電車 片道15分の奇跡』の映画を観た(TV放映)せいなのだが、よくよく考えてみたら、阪急今津北線(宝塚-西宮北口)で、舞台とすべき【今津駅】(今津南線)ではなかったんだけど、西宮北口駅に免じてそのままにしている。