中高野街道
大阪の東南に位置する平野は、大阪市内のどこよりも古く形成された町で、東に大和、南に紀泉をひかえ、平安時代(794-1185)より交通の要衝として発展した。
同じように、中高野街道が始まり、その起点は杭全(くまた)神社西の泥堂口(でいどうぐち)にあった、一里塚とされているのだ。
その杭全神社は、貞観4年(862年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂の孫で、この地に荘園を有していた坂上当道(まさみち)が牛頭天王(素盞嗚尊)を勧請し、祇園社(現・第一本殿)を創建したのが最初と伝えられている。
とは言えこの平野の地名の由来は、田村麻呂の次男であった父親広野麻呂から転訛したものであるが、この地の開発領主としてもすぐれ、平野殿と呼ばれたりもした。
さらに父親譲りの武人で、若いころから武勇の誉が高く、薬子の変(810年)では父親と共に嵯峨天皇側につき鎮圧したのである。
その嵯峨天皇から、平安時代の弘仁7年(816年)に、空海(弘法大師)に下賜され、修禅の道場として開いた、日本仏教における聖地の1つが高野山である。
日本の中世において、高野山から諸地方に出向き、勧進と呼ばれる募金活動のために勧化・唱導・納骨などを行った僧侶を高野聖(こうやひじり)という。
ただしその教義は真言宗よりは浄土教に近く、念仏を中心とした独特のものだったこともあり、こうした聖は高野山における僧侶の中でも最下層に位置付けられ、一般に行商人を兼ねていた。
時代が下ると学侶や行人方とともに高野山の一勢力となり、諸国に高野信仰を広める一方、連歌会を催したりして文芸活動も行ったため民衆に親しまれた。
民衆たちがいつごろから高野山をめざしたのかはよくわからないが、この中高野街道は、戦国時代(1467-1590)に、町の安全と自治をまもるため、集落の周りを二重の堀と土居でめぐらし、外敵の侵入を防いだ「環濠自治都市・平野郷」が成立してからではないだろうか?
【中高野街道こぼれ話】
平野に、環濠都市が二つあったのには驚いたが、平野の環濠は、いつ頃掘られたものかは不明で、戦国時代の動乱の時代に自衛と灌漑、排水用あるいは洪水の調節池としての役割を持ってつくられたと考えられる。
いっぽう喜連環濠は、南から伸びる瓜破台地の西側にあり、歴史的に見ると成立時期や展開についてはやはり不明で、高屋城(羽曳野市古市:1479-1575)の属城として扱われていたようです。
ところでこの中高野街道は、平野を起点としたのであるが、その北につながっている街道が放出(はなてん)街道と呼ばれている。
さらに旭区清水町を通って守口市高瀬町に入り、竜田通りで京街道(1596)に接する道なのだが、その入り口になる、守口宿とつながっているのだ。
《平野環濠都市》
環濠は、明治の初期には郷の東側から右廻りに松山池、流池、藤七池、道白池、今堀池、殿堂池(新池)、殿堂蓮池(弁天池)、お茶池、河骨池、関東池として平野郷を取り囲むように残っていたが、現在では杭全公園の北側と赤留比売命神社背後の土塁に面影を残すのみとなった。
ところで気になったのが、赤留比売命のことで、「赤留比賣(あかるひめ)命」は日本神話に登場する神で、新羅から祖国であるとする日本に渡来したというのだ。
夫である天之日矛(あめのひぼこ)が妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津に逃げてきた。その娘は、難波の比売碁曾の社に鎮まる阿加流比売神であるという。
(古事記)
《喜連環濠地区》
楯原神社の境内に、ひっそりとした息長真若中女の碑があり、それが何と、第15代応神天皇の后にあたり、継体天皇にもつながっているのだ。
つまり、ふたりの間に、若沼毛二俣王(ワカヌケフタマタノミコ)が生まれ、その彼が、息長真若中比売の妹と結婚して…つまり叔母と甥で結婚…高祖父にあたる意富々杼王(オオホドノオオキミ)や、允恭天皇の皇后となる忍坂之大中津比売命、妃となる衣通郎姫が生まれることになる。
なお、楯原神社にも祭神の一柱として、赤留姫命が祀られている。
《高野大橋》
喜連の西池善法寺に、沙禰王の慰霊碑があり、そのことを付け足したのだが、やはり喜連に、「息長」や「おほど」を見出すと、神功・応神、そして継体と関係づけたくなるのだ。
ここまで来てただ残念なのは、長吉長原の遺跡について語ることができなかったことだが、これはまた別形でとらえようと思う。
《阿保神社》
阿保親王については、在原業平の父親であることは知っていたが、どのような履歴があったかは知らず、第51代平城天皇の第一皇子でありながら、皇太子ではなく、薬子の変では左遷させられている。
さらに承和の変では、密書にて報告する役を担ったのだが、それが彼の死を早めることになったのかもしれない。
《みはら歴史博物館》
第18代反正天皇の丹比柴籬宮(たじひのしばかきのみや)は、松原市にあり、その陵墓は、堺市の世界遺産百舌鳥古墳群の一つである。
淡路宮(不詳、淡路島?)で生まれたというのだが、丹比神社には産湯をお使いになられたという井戸があるんよ。
『古事記』には多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)とあり、蝮部(たじひべ)を定めたとあるのだが、蝮は(まむし)であり、忌み嫌うものではなかったのだろうか?
《大阪狭山市駅》
暗渠とは、地下に埋設したり、ふたをかけたりした水路で、ここで初めて、身近に識ることができた。
と言うのも、明治31年(1898)の鉄道開通の際、狭山池からの農業用水を通す水路・通路として造られたのだ。
それも、狭山駅から大阪狭山市駅の区間に7ヶ所も見られ、大阪狭山市域の南海電鉄煉瓦造(れんがぞう)暗渠群(管理者:南海電気鉄道株式会社)として、土木学会選奨土木遺産に認定されてるんよ。
《瀧谷不動尊》
富田林市錦織南には「光明山 聖音寺」というお寺があり、本尊である如意輪観音坐像は、別名「矢疵観音(やしかんのん)」と呼ばれているのだが、そこは丘陵地で周囲が見渡せることができ、何よりも、嶽山・金胎寺山と向かい合っており、エピソードの根拠に、楠木正成の山城があっても不思議ではないと思うぐらいだ。
とはいえ、ここに人麻呂の碑があると言うので訪ねてみたけれど、とても宮廷歌人が歌詠みに来る場所ではないと思った。
《与津の辻》
中高野街道は、この後河内長野に入るのだが、楠町の交差点で、西高野街道と合流(与津の辻)するので、ここでいったん中断し、下高野街道から振り出しに戻る。
楠小学校の西側の道を少し北上すると、大阪市から続く「中高野街道」と堺市から続く「西高野街道」が合流する「与津ノ辻」があり、常夜燈と地蔵堂と町石が建っています。
中高野街道と合流(河内長野市楠町東)する。ここ与津の辻に右から太神宮常夜燈、地蔵堂、町石が立つ。
地蔵堂内の地蔵道標石には『(正)右ハ平野道 □ハ堺大坂道 河内照誉宗□ 南かうや』 ※□は判読不可
太神宮常夜燈には『(正)大神宮常夜燈 (右)明和三丙戌九月吉日 注)明和3年(1766)
(左)願主當村(裏)世話人 南組 若者中』
町石には『(正)右平野是ヨリ四里 左さかい大坂 (右)天保七申正月建 注)天保7年(1836)(解読不可に近い) (左)施主 大黒屋喜八』と「平野(平野道、中高野街道)、堺、大坂(西高野街道)」への道を示しており、この楠町東から中・西高野街道は、1本の街道となって河内長野駅前まで走っている。【西高野街道こぼれ話《河内長野駅》】へ