みはら歴史博物館
堺市の東に位置し羽曳野丘陵と接している美原区は、南東部が標高が高く北西は平坦な平野である。
区内には狭山池を水源とする東除川と西除川がながれ、平野部では田畑が広がり、多数のため池が現存している。
その由来も、平尾村・黒山村・丹南村の「三つ」の村に美しい平坦な野(原)が広がっていたことから「三原」を『美原』としたのだ。
この美原に私たちの祖先が住み着いたのは、およそ2千年前と推察され、羽曳野丘陵(平尾山)の西側の川に沿った小高いところに住み、魚をとったり、貝をひろったり、木の実を集めたり、手に弓や槍を持って、獲物を求めて駆け回り、鹿やうさぎなどを獲って、生活をしていたらしい。
縄文時代の終わりごろに、農耕文化が日本に伝わり、やがて定住・農耕の時代へと進んでいくんよ。
美原では、まだ弥生時代の水田も住居跡も発見されていないのだが、弥生時代には狩猟などが行われ、人びとは松原などの周辺地域に住んでいたと考えられる。
古墳時代になると、前方後円墳と呼ばれる古墳が造られ、全国に広まり、5世紀ごろの美原では、丹比氏(たんぴし)の首長の墓と思われる黒姫山古墳が築造されたのだ。
現在、美原に残っている古墳は、黒姫山古墳だけになってしまいましたが、発掘調査では太井遺跡から、次々と小規模の古墳が発見されています。
河内鋳物師(いもじ)は、美原区の大保(だいほ)を拠点に、金属を溶かして鋳型に流し込み、様々な鋳造(ちゅうぞう)製品を製造した中世の技術者を言う。
その技術は渡来人からもたらされ、東大寺の大仏鋳造でも活躍し、後に河内鋳物師たちは堺に移り住み、時代を動かした鉄砲を製造するようになった。
堺市立みはら歴史博物館(M・Cみはら)は、『カタチ造りの達人』をグランドコンセプトに、平成15年に開館しました。
愛称のM・Cみはらは、Museum(博物館)と、Community(交流)をイメージしたもので、 展示場では「黒姫山古墳」「河内鋳物師」「ちょっと昔の道具」をテーマとした常設展示を行っています。
道の旅人も、美原区を知らずして駆け抜けるわけにはいかないので入館することにした。
【黒姫山古墳】
美原町のほぼ中央、国道309号と府道泉大津美原線に接して、5世紀中頃に軍事や外交などに携わっていた丹比氏の首長の墓とされる黒姫山古墳があります。
この古墳は、前方後円墳で二段に築造され、その周囲には2つの濠があって(1つは現存)、少なくとも6基の陪塚を伴っていたと伝えられています。
戦後間もなく、故末永雅雄博士らによって発掘調査が行われていましたが、後円部の埋葬施設はすでに盗掘などによって壊されていました。
しかし、偶然にも前方部からは竪穴式石室が良好な状態で発見され、そこには、甲冑が24領出土し、また襟付短甲があったことで日本中の話題になり、現在でも考古学上は非常に貴重な資料となっています。
黒姫山古墳の周囲には、濠が掘られ、池のようになっていますが、さらに外側に「周庭帯(しゅうていたい)」と呼ばれる部分が存在します。
周庭帯は、古墳を立派に見せるために造られたもので、現在、墳丘部は森のようになっていますが、築造当時は赤い埴輪が整然と並べられており、斜面に敷き詰められた白い葺(ふ)き石とのコントラストは、さぞ見る人を圧倒したことでしょう。
【河内鋳物師】
鉄や銅などの金属を溶かして鋳型(いがた)に流し込み、鋤などの農耕具、鍋・釜などの生活道具から、梵鐘・仏像にいたるまでの製品を鋳造(ちゅうぞう)した技術者が鋳物師です。
彼らは、さまざまな鉄鋳物を鋳造する技術者であるとともに、朝廷に鉄燈篭を献上し、諸役の免除・往来の自由・関所の通行料免除などの特権を得て、鋳物だけでなく、その素材や米・絹などの売買をも行っており、今で言う総合商社的な活動を行っていたことが知られてきました。
美原区域では、すでに8世紀初頭に銅を材料とする鋳造工房が営まれていたようである。
平安時代末期から室町時代にかけて、大保を中心とする河内国丹南郡は、鋳物師が集まり住んでいたところで、「大保千軒」と呼ばれるほどの賑わいを見せ、河内鋳物師が造りだした多彩な作品によって、その高い技術が実証されてします。
となれば、道の旅人も黒姫山古墳の主と、鋳物師の発祥地まで赴かなくてはなるまい。
江戸時代には天武天皇陵とされたり、明治初年には仁賢皇后陵に一時認定され、同12年に廃止されています。
黒山の地名は古くから文献にみられ、古墳の名称はそれに由来したものと考えられ、先の伝承とあわさって黒姫山の名称が伝わったものと思われます。
本来の被葬者は、古墳時代中期に当地域において勢力を誇っていた丹比氏(丹比連の一族)と考えられています。
丹比連の職掌(職務)が天皇の側近に軍事で奉仕した氏族であったことは、副葬品が物語るところといえるかもしれません。
この多比氏は、第28代宣化天皇(467?-539?)の三世孫多治比古王を祖とするが、それでは築造の時代と合わず、にわかに信じがたいのだが、どの天皇の時代までさかのぼればいいのだろう?
宣化の父第26代継体(450?-531?)にしても、河内国で即位したのは507年であり、墳墓の築造年代を考えれば、おそらく第19代允恭(在位:412-453)の時代、第20代安康(在位:455・456)はないかもしれないが、甲冑を考えればギリギリ第21代雄略(在位:457-479)のことが浮かんでくる。
ところが記紀では、河内国を支配していた豪族が見当たらないのだが、一人有力なのが大伴室屋である。
その主君も、允恭から第23代顕宗(在位:485-487)と長すぎるほど長く、5世紀後半のなってしまうのだが、ひょっとしたら大和王朝とは別に、河内王朝が存在していたかもしれない。
そうなってくると、第18代反正(はんぜい:在位406-410)の『古事記』では、多治比之柴垣宮とあり、この地の豪族が王朝を支えていたことになるのだが、そこで娶ったのは、丸邇(わに)之許碁登臣(こごとのおみ)之女となっている。
和珥氏(わにうじ)は、5世紀から6世紀にかけて奈良盆地東北部に勢力を持った古代日本の中央豪族である。
和珥は和邇・丸邇・丸とも書くのだが、果たしてこの一族が、多治比氏とつながっていたのかどうかはわからない。
鍋宮大明神は明治元年(1868)に廃社となって200mほど北にある広国神社に合祀されています。
現在その跡地には鍋宮大明神の石碑、歌碑、大保千軒之碑、日本御鋳物師発祥地碑などがあります。
つまり、河内鋳物師は12世紀中ごろには、朝廷に鉄燈籠を献上したことなどによって鋳物事業を独占、平安時代から室町時代にかけて最盛期を迎え、この辺り一帯は大保千軒といわれるほど賑わっていたのだ。
その業績は鍋や釜、農機具といった日常雑器から寺の梵鐘の製作、さらには鎌倉の大仏、狭山池の改修にも尽力した、重源(ちょうげん)による東大寺の大仏再建にも関わっています。
その後、河内鋳物師は国内各地の需要に応じて分散居住し、河内の鋳物の中心地も流通に便のよい堺周辺へと移るなどしたため、さしもの「河内鋳物師」も衰退して行きましたが、後に堺では刃物や鉄砲が有名になることから、金属加工技術は受け継がれて行ったと考えられます。
時に多遅(たぢ)の花、井の中に有り。因りて太子の名と為。多遅の花は今の虎杖(いたとり)の花なり (『日本書紀』反正天皇)
「多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)」と名付けられたとあるのだが、その誕生地は淡路島になっているのだー【初生于淡路宮】なのだ。
さらに、『日本書紀』より以前に経集されている『古事記』(712)には、父の仁徳天皇がミズハワケ皇子(後の反正天皇)のために蝮部(たじい部)を置いた、とあることから、反正天皇は親代わりであろう丹比何某に養育されたと考えられるのだ。
「この仁徳天皇の御代に、皇后である石之日売いわのひめの御名を伝えるための部民(べみん)として葛城部(かつらぎべ)を定め、また皇太子である伊耶本和気(いざほわけ)の御名を伝えるための部民として壬生部(みぶべ)を定め、また水歯別(みずはわけ)の御名を伝えるための部民として蝮部(たじひべ)を定め」とある。
そして、弟墨江中王(いろどすみのえなかつみこ)の反乱にあった履中の項では、多遲比野に至るとあり、反正の項では、多治比之柴垣宮としているように、地名としてまかり通っており、多治比氏以前に、その名を賜与された豪族がいたのである。
丹遲比野に寝むと知りせば立薦(たつごも)も 持ちて来ましもの寝むとしりせば 古事記
菅生神社の創建・由緒は詳らかではありませんが、当地に居住していた中臣氏の一族である菅生氏が、祖神天児屋根(あめのこやね)命を祀ったと考えられています。
文献の初出は『新抄格勅(きゃくちょく)符抄』に天平宝字八年(764年)本国封一戸を充て奉るとあり、それ以前から存在していたことがわかり、朝廷から重視された神社の一つだったことも示されています。
平安時代に182氏を出自毎に分類した、『新撰姓氏(しょうじ)録』(815)河内国神別(しんべつ)には、「菅生朝臣」が記載されている。
また、延喜式神名(じんみょう)帳(927)には「河内国丹比郡菅生神社」と記載され、大社に列しているのだ。
さらに、中世、天神信仰(947)が広まると、当社の神宮寺・高松山天門寺の社僧が「菅公は境内の菅澤の畔で生まれた」という説を唱え、天神を勧請して配祀(はいし)した。
そのうちに「菅生天満宮」と呼ばれるようにもなり、江戸時代には天神の方が主祭神とされるようになった。
古代からこの地は沼地が多く菅(すげ)が一帯に生えていたため「菅生(すごう)」と称されるようになっており、 社伝によると、菅生周辺を治めいていた「中臣氏」が地名から「菅生氏」を名乗り、祖先を祭る為に創建したと伝えられている。
昔から格式高い神社だったようですが、鎌倉時代末期から室町時代にかけての1334年と1341年の2回兵火にあい、社殿が全て焼失し、残った一族が神社を再興し現在に至っています。
ここで美原区と別れを告げ、大阪狭山市に入るのだが、中高野街道はもっと西側にあり、道の旅人は軌道修正するにあたり、語らねばならない一人の詩人を思い出した。
そのためには、舟渡池公園のある交差点まで戻り、美原区役所・美原図書館へ進路をとらねばならなかった。
夕映 伊東静雄の詩『反響』より
わが窓にとどく
夕映は 村の十字路と
そのほとりの小さい石の
祠の上に一際かがやく
そしてこのひとときを其処に
むれる幼い者らと白い
どくだみの花が明るい
ひかりの中にある
昭和21(1946)年、伊東静雄は友人に「私はこのごろ田舎に一軒家を見つけて移り住み、安楽な気持ちで一年ぶりに自由な生活ができて、喜んでいるところです」と手紙に書いています。
空襲で家も蔵書も失い、文学の友を失い、家は粗末で、暮らしは貧しく通勤も不便ではあるけれども、伊東は、北余部の地(美原区)に、故郷諫早を見ていました。
平野が広がる牧歌的な風景は、伊東を慰め、「広々とした田圃の中で、雲が美しく、毎夕方、下駄をやつとはきなれた夏樹(長男)をつれて、散歩にでます」と書きました。
家を出た十字路には小さい地蔵の石の祠があり、小川にかかる石橋は久しく忘れかけていた故郷の原風景を追想させ、堰を切ったように数々の作品がうまれ、昭和22(1947)年、第四詩集「反響」は、白鳥の歌と呼ばれる美しい詩集なのだ。
日本の近代詩の歴史に大きな足跡を残した詩人 伊東静雄は、その短い生涯のうち約13年あまりを現在の堺市堺区と美原区で過ごし、現在の美原区北余部に在住のまま昭和28(1953)年に亡くなりました。