喜連環濠地区

本居宣長(もとおりのりなが)は、 「古事記伝(こじきでん) 」で、喜連は久禮(くれ)が訛った 地名で、万葉集に載る伎人郷(くれひとさと)は、喜連のことであるとしています。

伎人(くれひ と)とは大陸文化をもたらした渡来人(とらいじん)のことです。

 

縄文時代、海面は今よりも高く、 喜連は古代河内湾南岸の良港で、大陸からの玄関港でした。

古墳時代後期には、住吉津から喜連を 経て飛鳥につながる磯歯津路(しはつみち) (現在の長居公園通沿い)がありました。

 

奈良時代には、喜連の馬史国人(うまのふひとくにひと)が詠んだ「にほ鳥の於吉奈我河(おき なががわ)は絶えずとも 君に語らむ 言尽きめやも」 (万葉集巻二十)の歌があります。

息長(おきなが)河 は古代氏族息長氏により、現長居公園通沿いに掘削された喜連西一帯~現今川まで続く河と思われ ます。

 

中世、喜連全体は如願寺を主舘とした深さ 3mの環濠(堀)で囲んだ喜連城となり、南北朝の戦乱、 応仁の乱、大阪夏の陣を経て、袋小路の多い街並みが残りました。

江戸時代には、環濠は農業用水路に変わり、中高野街道沿いには酒・油・薬などの地場産業が生 まれ、今に残る歴史的建造物である寺社や古民家が建ち、また、環濠の六出入口には地蔵尊が祀ら れました。               (喜連環濠地区まちづくり研究会) 

平野環濠の流口から、中高野街道を駆けて入るのは、北口地蔵である。

天文年間(1532~1555)の喜連城主細川氏綱(1513-1564)が地蔵堂を寄進と伝える。

北口は中高野街道が喜連環濠と交差する村の玄関口で地蔵堂も大きい。

深い軒は旅人を休め、雨宿り地蔵の名も残す。

堂前の濠端は石垣をめぐらせ、立派な石橋(松山橋)が架かっていた。

 なお、喜連地区の如願寺が城域とされる。

その喜連城は、高屋城の支城であり、延元年間に北畠顕家が陣所としたことに始まり、1532年に細川氏綱が在城したことが確認できる。

 

西口地蔵ー喜連環濠集落の西の出入り口に祀られているが、本尊の左手にもう一体、首地蔵が安                置されている。

               地蔵堂は、西喜連村の本道「中小路」に面しており、昔は葬礼や嫁入りの行列はここ                を通って集落に出入りした。

               江戸時代半ばまで、外敵の侵入を防ぐため環濠の外縁に道はなく、必ず六口を通らな

               ければ村に入れなかった。

寶園寺ー村にまだ浄土真宗がなかった頃、当時久宝寺にあった慈願寺の法円に帰依する門徒団に

    よって興された西喜連村惣(そう)道場(どうじょう)が寶圓寺の前身である。

    元和(げんな)七年(1621)、西喜連村惣道場は東本願寺(大谷派)より本尊阿弥陀像木

      仏(もくぶつ)を下付(かふ)され、いち早く寺院化する。

            寛永七年(1630)に当時の真宗先進地越中(えっちゅう)石動(いするぎ)から正式な僧侶寛             能を迎えて寶圓寺を名乗り、名実ともに寺院となった。 

南口地蔵尊は一筋北の辻付近より移されている。

近年発見された文化十三年(1816)の村絵図から、その地は東喜連村を南北に貫く村の本道が環濠と交わる地点であり、江戸時代の東喜連村の字「南口」に当たることがわかった。

ところで、この南口の近くに法明寺があり、貞和3年(1347)融通念仏宗中興の祖七世法明上人(1279-1349)が創建したものである。

江戸時代は融通念仏宗の中本山であり、良忍上人(1073-1132)の元祖忌や法明上人の中興忌など、本山大念佛寺の大切な法要を、河内末寺の代表として執り行っており、壁の五本線がその格式を示している。

法明は1347年(正平2年/貞和3年)4月、大念仏寺を興善に譲り、喜連に道場を立て12月に竣工した。

 

喜連は江戸時代には摂津国住吉郡と確定しているが、河内国との国境地帯であり、中世には河内国渋川郡と認識されていたこともある。 

中喜連村の東口に位置し地蔵堂の東が濠だったが、その西側に法性寺(ほっしょうじ)があり、

藤本善之亟(ぜんのじょう)玄了が大坂本願寺実如上人(1458-1525)の弟子となり、1520年代に道場を創建。

藤本傳右衛門了法が元禄15(1702)再建を志し、西本願寺より本尊阿弥陀像を得て、宝永7年(1710)親鸞聖人御真影と寺号を得る。

宝永地震(1707)後いち早く新築再建を果たし、庄屋邸で庄屋が兼任していた辻本道場から寺院建築で専業の堂僧を置く法性寺となった。

安政地震(1854・55)で再度再建されているが、堂宇の古い部材は宝永期のものである。

 

法性寺には寺子屋があり、明治5年(1872)学制発布(はっぷ)の年、この中で喜連小学校が誕生したのだが、最近確認された墓碑銘から、寺子屋の存在は寛政8年(1796)以前に遡ることが判った。

その西にある一向山専念寺は、「慶長2年(1597)摂津国住吉郡中喜連村に創建されたり」とあり、寺伝では道善上人の開基である。

山号については、「一向専念無量寿佛」という経文があり、多くの方々と伴に、‟一心に念仏をお唱えすれば百万遍の功徳を成就するという”、この時代の強い念仏信仰がこめられたのである。

現在建っている本堂は、宝永地震被災後に改修が立案され、長期間をかけて敷地を拡張し、藁葺(わらぶき)を瓦葺に葺き替えて、安永4年(1775)に完工したものである。

内陣は中世の道場様式を残す押し板形式を留めており、また本堂・山門の軒(のき)丸瓦に豊臣家の五七(ごしち)桐紋が使われ、中喜連の地が豊臣家天領だったことがわかる。 


崇神天皇6年、この地の国造大々杼(おおど)名黒に対して「国造館に奉斎する国平(くにむけ)大神と建甕槌(たけみかづち)命を同床共殿に祭るのは恐れ多いため、別殿を造営して奉斎せよ」との詔が下り、建甕槌命を「楯之御前神社」、国平の鉾を「鉾之御前神社」と称して鎮斎(いはひ)し、同7年9月2日に鎮座祭を行い、同9年に神領地を南は多治井(堺市美原区)、北は味原(大阪市天王寺区)、西は浪速までと定めた。

 

神功皇后の時代、三韓征伐にあたって軍事に関する託宣が降り、還幸後の神功皇后11年、品陀和気命を伴って当社を親拝したおり、このとき大々杼氏の、息長田別(おきながたわけ:ヤマトタケルの子)王とその子である杙俣長日子(くいまたながひこ)が奉仕した。

十種神宝が当社に祀られた由来について、社頭の案内には、

室町末期、将軍・足利義昭が織田信長と争ったとき、石上神社も信長の焼き討ちにあい十種神宝も持ち去られたが、これを知った豊臣秀吉が取り戻し生国魂の社に鎮めた。

しかし幕末の混乱期に生国魂宮も暴徒に襲われ神宝も再び持ち去られ行方不明になったが、その後、町の古道具屋の店頭で発見され、数人の人手を転々したのち心ある人によって当社に奉納されたので、社殿を建立して祀られた。

昭和になって、石上神社から返還の願いがあったが断った」(大意)

この神社の北側に、如願寺がある。

寺伝では崇峻天皇元年(588)聖徳太子の創建。もと喜連寺と号し阿弥陀寺・弥勒寺など四方に諸堂を備える大伽藍であったが荒廃し、弘法大師により弘仁8年(817)再建、如願寺と改めたと伝える。

本尊聖観世音菩薩は、平安時代の作で大阪府有形文化財であり、摂津国三十三所観音霊場の第三十二番札所である。

平安期の地蔵菩薩木仏が、平成24年度大阪市有形文化財の指定を受ける。

 

周辺の古字名から、中世喜連城本丸の地と推定され、享保年間築造の本堂は鯱鉾を載く。

大和川付け替えで狭山池水系の水を断たれた時、村人が力を合わせ新川から用水を引いた「五十間樋」を記念する「灌漑長閘紀功碑」(藤沢南岳撰)が境内の一隅にある。

境内にあった井戸及び近辺いくつかの井戸は、そのまま飲用でき、喜連の酒造にも使われた。 

楯原神社の東側にある尻矢口(ししゃぐち)は、喜連城後方の矢口で村の東北の出入口だが、地蔵堂の背面は環濠の石垣で、1940年頃まで荷車や馬車も通る石橋が架かっていた。

この「尻矢口」は、喜連 城本丸から見た尻(後方)の備えの矢口であ ろうが、つまり、戦国時代この場所に敵を待ち構えて矢を放つ場所があったんだとか。

昭和15年(1940)頃ま では荷車や馬車が通れる幅の石橋が架かっ ており、地蔵堂の土台は、環濠が埋め立てられる 昭和35年(1960)までは立派な石垣で、基 礎が築かれていた。

ここから、ふたたび楯原神社に戻って、この項の最後にしたいと思う。

と言うのも、十種神宝大神の向かって左隣に「息長真若中女(おきながまわかなかつひめ)」の碑があるのだ。

つまりそのことについて、大阪府全誌にも、「其の記事の真なるかは無論疑なき能はざれども、亦漫然口碑を記するに優れるものあらん」と記されている、『北村某の家記』に驚かされたからである。

と言うのも、息長真若中女(オキナガマワカナカツヒメ)とは、第15代応神天皇の妃であり、しかも、その息長氏といえば、神功皇后の諱(いみな)、気長足姫(おきながたらしひめ)ともつながっているのだ。

息長氏は、古代近江国坂田郡(現滋賀県米原市)を根拠地としているのだが、この河内国に勢力があったとしたら、河内王朝が現実味を帯びてくるのではないだろうか?

まして、世界遺産に登録された、百舌鳥古市古墳群にも納得ができるのだが、そもそも初代神武天皇以前に、建御雷神(たけみかづち)の子孫が、この地の国名を「大々杼(おおど)国」、郷名を「大々杼郷」と名付けていたという。

 

そして、第26代継体天皇の諱も男大迹(ヲホド)であり、その誕生地は、遠く離れた近江国であるのだが、息長氏と大々杼氏の結びつきについては、神功皇后摂政11年に、「大々杼」を改めて「息長」の姓を賜ったとしているのである。(『家記』での経緯は省く)

やがて真若は、若沼毛二俣(わかぬけふたまた)王を生んだのだが、この人物こそ、継体の高祖父であり、今の皇室につながると考えれば、片隅に追いやられているとはいえ、見過ごすわけにはいかないのだ。

この項は此処で終わるが、平安時代末から室町時代にかけての喜連東遺跡があり、さらに南東部には、旧石器から平安時代に至る複合遺跡である、長原遺跡があり、古代平野の探訪に魅かれるが、道の旅人としては、先を急がねばならなかった。