京街道

起源は奈良時代より存在する古道であったが、1594年(文禄3年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が、1596年(文禄5年)2月に毛利一族に命じて淀川左岸に「文禄堤」として街道を整備し、後に京街道と名を変えた。

大坂より京都への道は、この京街道が本命と考えられるが、京~大坂間の交通には、淀川を利用した船便による往来が多く、伏見・淀・八幡(橋本)・枚方・守口・大坂八軒屋などは、いづれも船着き場として栄えたところである。

 

淀川の対岸への往来は、今でも橋のかかっているところは少ないが、昔は多くの個所に渡場があって、船とのなじみは深かったのである。

東海道は本来、江戸日本橋を起点とし京都三条が終点となっているが、江戸時代、大坂が商工業の重要地となってから、東海道の延長の形で、この京街道を含めて東海道と称されていた。

 

つまり、江戸方より順に伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿の4つの宿場が設けられ、東海道五十三次はかくして五十七次になったのであるが、淀宿と枚方宿の間の橋本には遊廓を持った間の宿(あいのしゅく)も設けられていたという。

今回は、大阪・高麗橋(江戸時代は京橋)を出発点として、淀川沿いを駆けることになるが、果たして京都エリアになる淀宿や伏見宿まで記録でとりあえずきるかどうかわからないけれど、とりあえず京都府八幡市の府境を目標とする。

高麗橋・里程元標

東横川にかかっている橋が高麗橋(こうらいばし)で、大坂に12あった公儀橋の一つで、かつて高麗橋周辺は豪商の店舗が立ち並び、日本第一の商都・大坂の富が集中する、まさに大坂の心臓部であった。

明治初期にかけて京街道・中国街道・暗越奈良街道・紀州街道・亀岡街道などの起点が順次高麗橋に変更され、明治政府は高麗橋東詰に里程元標(りていげんぴょう)を置き、西日本の道路の距離計算の起点としていたが、現在は道路元標として梅田新道交差点西北角に移されている。

そしてこの橋の西詰以西には、維新への躍動ともなったであろう適塾があり、『春琴抄』の題材や、日本の薬品業界を牽引した薬問屋が立ち並んでいたのである。

 

京橋(古大和川)

京橋(橋梁)は京街道の起点(のち高麗橋に変更)、また東海道五十七次の終点(江戸日本橋から137里4町1間)であり、大坂では数少ない公儀橋であった。

北詰には京街道沿いに相生西町・相生東町・野田町といった町並が形成され、川魚市場もあり、大坂の玄関口の一つとして賑わい、南詰は大坂城の虎口(こぐち)の一つである京橋口なのだ。 そしていよいよ、JR西日本大阪環状線・片町線(学研都市線)・JR東西線、京阪本線、Osaka Metro長堀鶴見緑地線が乗り入れる大阪屈指のターミナル駅となっている、現在の京橋周辺へタイムスリップしながらも突入することになる。

大宮神社

「コワクビの断間(たいま)」は現在の大阪市旭区千林、「コロモコの断間」は寝屋川市太間(たいま)に当たるとする伝承がある。

当時の淀川分流の流路に沿って20km超にわたって築かれているのだが、『古事記 仁徳記』には、「秦人(はだびと)を役(えだ)ちて茨田堤及び茨田屯倉を作れり」と記しています。

 

そこで気になるのが、『日本書紀』に挿入された武蔵人コワクビのエピソードことであるが、『日本書紀 天武紀下』に、「帰化を望んできた百済(くだら)の僧尼および俗人の男女合わせて二十三人は、皆、武蔵国(むさしのくに)に住まわせた」とあるのだ。

更に、持統天皇元年(687年)、日本の朝廷は帰化した新羅人14人を下野国に、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。

持統天皇3年(689年)にも投化した新羅人を下毛野に移し、翌持統天皇4年(690年)にも帰化した新羅人を武蔵国や、下毛野国に居住させる。

聖帝の時代にあっても、武蔵人が泣く泣く犠牲を強いられているのも、武蔵国の開拓を暗示しているのかもしれない。

文禄堤

江戸川乱歩(1894-1965)は、明治〜昭和に活躍した推理小説を得意とした小説家だが、早稲田大学を卒業後大阪に移り、1920年(大正9年)に大阪時事新報に就職します。

この時過ごしたのが当時の守口町801番、現守口市来迎町だが、現在はマンションが建っており当時の面影は残っていません。

その後1923年(大正12年)、大阪毎日新聞に就職したが、新青年』に掲載された『二銭銅貨』でデビューする。

東京に移る1926年(大正15年)1月まで過ごすのだが、必ずしも正確ではないにしろ、明智小五郎(1925年)を発端として、少年探偵団(1936年)・怪人二十面相(1936年)が誕生したのである。

茨田堤

茨田堤の鎮守として創建された堤根神社(つつみねじんじゃ)が、寝屋川市の南部の門真市に二社ある。

門真市宮野町の堤根神社は、淀川の支流・古川の南岸のかつての茨田堤の際に鎮座し、祭神は彦八井耳命・菅原道真だが、茨田堤築造に関係の深い茨田氏が、堤の鎮守として祖神・彦八井耳命を祀ったものと伝えられている。

社殿の近くに茨田堤の一部が残り、その上に樹齢500年以上の樟が生えているが、昭和の初期までは茨田堤跡がもっと長く残っていたが、宅地開発により削られ、当社宮司の奔走により昭和48年3月29日に大阪府史跡「伝茨田堤」に指定され、一部が残された。

 

 こうして、茨田連衫子が神に祈りの想いを届けた『浮かびひょうたん』の伝承を持つこの地は、堤根神社となり、毎年8月第1日曜日に、先人たちの偉業を称え、神様のご恩に感謝するため「茨田堤祭」が行われています。(コロナ禍中には確認を!)

枚方宿本陣跡

過書船(淀川の定期船)は、大坂天満橋の八軒家船着場から京都の南、伏見豊後橋まで、淀川(10里13町27間)を、昼夜兼行で往来したが、荷物は200石ないし300石積で、旅船は30石が普通であったことから三十石船ともいう乗り合い船であった。

旅客専用であった三十石船は、夜と昼の一日二便、所要時間は下りが半日、上りは一日だったといい、流れの速い場所を上る時には、川の両岸から交互に綱で引っ張り上げていたが、行き交う船を監視するための番所が枚方宿に設けられていた。

 

淀川に面した枚方宿を利用する者は主に京へ上る者に限られ、上りの船は下りの倍の料金が掛かる上に、所要時間も徒歩と変わりがなかったため、天保4年(1833年)の記録によれば、極端に上りに偏っていた。

船の発着駅の役割を兼ね備えた旅籠を「船宿」といいますが、伏見と大坂の港には各25軒(天保8年)もの船宿が営業していたようで、現枚方宿鍵屋資料館の前身、旅籠「鍵屋」は幕末頃になると、屋敷裏手の船着場を利用する三十石船の船待ち宿として繁盛しました。 

阿弖流為の塚

阿弖流為(あてるい)は今から約1,200年前、現在の奥州市水沢地域付近で生活していた蝦夷の一人で、 当時『水陸万頃(ばんけい)』と言われていたこの胆沢地方と蝦夷を統治したい朝廷軍との戦いに、リーダーとして勇敢に立ち向かった人物です。

軍事遠征の準備も整った延暦7年(788)12月、征東大将軍紀古佐美(きのこさみ)に胆沢遠征の命令が下り、遠征軍は坂東諸国歩騎(ほき)52,800余人で、戦闘経験者、戦功者、弓馬に長たけた者たちが選抜されました。  

翌8年3月上旬、遠征軍は多賀城を出発し、胆沢へ進軍し、同月末には胆沢の南端の衣川に到着、軍を前・中・後の3軍に分けて布陣しました。

同6月、遠征軍が動き、3軍から精鋭を選んで合同で当たることになり、前軍が北上川右岸を中・後軍は4,000の兵で同左岸をそれぞれ北上し、アテルイの拠点地域である巣伏’すぶせ)村(奥州市水沢区東郊一帯)で合流するという作戦です。

これに対し、アテルイ軍はゲリラ戦で応戦し、両岸を北上する政府の精鋭部隊を撃破したのが「胆沢の合戦」の緒戦です。  

この後、政府は2回胆沢遠征軍を派遣しますが、アテルイ軍は13年間にわたって、これを戦い抜きました。

 延暦8年(789)の「胆沢の合戦」に大敗した政府は翌9年、直ちに第2回胆沢遠征の準備をはじめました。

延暦13年(794)正月、将軍弟麻呂は桓武天皇から節刀(せっとう)をたまわり、胆沢遠征に出発した、その遠征軍の実戦部隊の総指揮官が田村麻呂で、彼は6月、10万の遠征軍がエミシ軍に勝ったと京に報告しましたが、胆沢はまだ落ちません。

延暦15年(796)、前回の余韻も冷めやまぬうちに、第3回胆沢遠征計画が始まり、数年かけて、遠征の手はずを整えた田村麻呂は延暦20年(801)、今回は征夷大将軍として胆沢の遠征に出発しました。(奥州市埋蔵文化センターーより)

アテルイのことはよくわからないので、ここに書きしるし、枚方市の記録として樟葉宮についても、継体天皇を今後の課題として記憶にとどめるためである。