京橋(古大和川)

土佐堀通の、京阪東口交差点付近間および寝屋川橋東詰交差点 - 片町東交差点間は京街道の一部区間にあたる。

秀吉の時代、京都へ向かう最初の橋が京橋であり、もともとはここが起点になっていたのであるが、この付近は、大坂城の前身である、石山御坊の門前市が立ち、それが発展したところでもある。

とは言え、豊臣時代から江戸初期には、青物市場・川魚(鮒)市場、秋から冬にかけては木綿市場も立ち、人の往来で混雑していたであろうが、青物市場は天満に移転(1653年)している。

しかし、ここで南の京橋口を無視するわけにはいかないので、我らが城『大阪城』(中央区)についても述べておく。

大坂城は、安土桃山時代に上町台地の先端、摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれ、江戸時代に再築された。

太閤はんのお城」と親しみを込めて呼ばれることもあるが、1583年(天正11年)から1598年(慶長3年)にかけて豊臣秀吉が築いた大坂城(豊臣大坂城)の遺構は、現在ほとんど埋没している。

現在地表に見ることのできる大坂城の遺構は、1620年(元和6年)から1629年(寛永6年)にかけて徳川秀忠が実質的な新築に相当する修築を施した大坂城(徳川大坂城)の遺構である。

1959年(昭和34年)の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などもすべて徳川氏、江戸幕府によるものであることが確定している。

 

天守は1931年(昭和6年)に鉄骨鉄筋コンクリート (SRC) 構造で、徳川時代に再建された天守台石垣の上に資料の乏しい豊臣時代の天守閣を想像し大坂夏の陣図屏風絵などを参考に模擬復元された創作物であるが、築90年近い現在はそれはそれとして登録有形文化財となっており、博物館「大阪城天守閣」として営業している。

かつて、この地のすぐ北の台地下は淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもあった。

元々は古墳時代の古墳があったと言われ、戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、1580年(天正8年)に石山合戦の講和直後に火災焼失した。

この石山(大坂)の地は、西日本を押さえるにも優れていたため、『信長公記』によると信長はこの立地を高く評価し、跡地にさらに大きな城を築く予定であった。

石山合戦終結後の同地は織田信長の命令で丹羽長秀に預けられた後、四国攻めを準備していた津田信澄が布陣した。

一時的な野戦的布陣ではなく、「千貫矢倉」などの建物もあった(『細川忠興軍功記』)ことから、一軍が長期駐屯できるほどの設備が構築されていたと推測される。

信澄(光秀の娘婿)は本能寺の変の発生後、丹羽長秀に討たれ、その後、清洲会議で池田恒興に与えられるも、恒興がただちに美濃へ国替えとなったため、秀吉の領有となった。

 

こうして京橋を降りて寝屋川橋東詰から京街道に入ると、道の旅人には『心中天の網島』浄瑠璃が聞こえてくるのである。

一つ蓮(はちす)の頼みには、一夏(いちげ)に一部夏書(げがき)せし、大慈大悲(だいじだいひ)の普門品(ふもんぼん)。

 

妙法蓮華(経)京橋を、越ゆれば至る彼の岸の、玉の台(うてな)にのりをえて、仏の姿に身をなり(御成)橋


衆生済度(しゅじょうさいど)がままならば、流れの人のこの後は、絶えて心中せぬように、守りたいぞと及びなき、願いも世上の世迷言(よまいごと)、思いやられて哀れなり。


野田の入江の水煙、山の端(は)白くほのぼのと、あれ寺々の鐘の声こうこう、こうしていつまでか、とても長らえ果てぬ身を、最期急がんこなたへと、手に百八の玉の緒を、涙の玉に繰り混ぜて、南無網島の大長寺。

 

藪(やぶ)の外面(そとも)のいささ川、流れみなぎる樋(ひ)の上を、最期所と着きにける。

確かに、大長寺は近松門左衛門の『心中天網島』で、小春・治兵衛が心中した場所であるが、1912年(明治45年)に当地にあった大長寺の敷地を、明治十八年の淀川洪水後に買収して藤田家本邸が建てられた。

この時大長寺は、現在地の北に300mほどの都島区中野町2丁目に移転し、小春・治兵衛を供養する比翼塚も同時に移転したのである。

したがって、本来の『心中天網島』の舞台は藤田美術館ならびに藤田邸跡公園にあったというわけになる。

美術館の役割の第一義は所蔵品の保護と展示ですが、それに加えて、大人から子どもまで幅広く楽しんでいただける美術館を目指したいと考えました。

展示室手前のガラス張りの空間は、日本家屋でいう“土間”をイメージしています。

家の玄関であり、近所の人が立ち寄ってお茶を飲む応接間であり、子どもの遊び場でもあるという考えのもと、美術館としては異例ですが、オープンキッチンを設けました

 

さらに藤田 清(伝三郎から数えて5代目の子孫)館長は、「ここでお茶を楽しんでいただくほか、ワークショップや講演会なども開催していきたいと考えています」(2022年4月オープン予定)と付け加えている。

藤田傳三郎(1841年7月3日 -1912年3月30日)は、日本の商人・実業家で、明治時代の財界の重鎮でもあり、藤田財閥の創始者、民間人で初めての男爵でもある。

現在の山口県萩市出身で、元奇兵隊士だとされるが詳細は不詳ながら、幕末の動乱期に高杉晋作に師事して奇兵隊に投じたとされているが、奇兵隊士の名簿に伝三郎の名は乗っていない。

しかし、木戸孝允・山田顕義・井上馨・山縣有朋らと交遊関係を結び関係を作っているのは確かであり、この人脈が後に伝三郎が政商として活躍する素因となったが、なかでも特に井上とは深い盟友関係となる。

1869年(明治2年)、長州藩が陸運局を廃止して大砲・小銃・砲弾・銃丸などを払い下げた時、伝三郎はこれらを一手に引き受け、大阪に搬送して巨利を得て、同年、伝三郎は大阪で兵部大丞山田顕義から軍靴の製造を提案されると、次兄の藤田鹿太郎、三兄で久原家を継いでいた久原庄三郎を呼び寄せて高麗橋に軍靴製造の店舗を設け、藤田傳三郎商社を設立した。

1876年(明治9年)には皮革製作所製靴場(現・リーガルコーポレーションの前身)として整備を行っている。

1877年(明治10年)の西南戦争では陸軍に被服、食糧、機械、軍靴を納入し、人夫の斡旋まで行って、三井・三菱と並ぶ利益を上げている。

1878年(明治11年)大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)の設立では五代友厚、広瀬宰平などと共に発起人となっている。

JR大阪環状線・京橋駅の国道1号線のガード下をくぐり、北へ伸びる京橋商店街を道なりに進むと、榎並地蔵に出くわす。

京街道沿いにあるこのお地蔵さんは、“由緒”によりますと、「京街道沿いに、古くからの野江村の方々により、大切にお祀りされてまいりました」とある。

もとの場所は、当地より南、榎並川(京街道沿:都島区と城東区の境)に架かっていた水香橋の袂に祀られていたが、度重なる洪水に悩まされ、地蔵にまつわる古文書は残っていません。

 

この榎並の由来は、榎並荘にあるようだが、成立経緯は不明で、1030年代に法隆寺が同荘を売却したことが知られており、それ以前は法隆寺領であったことが判明している。

そもそもが、摂津国東成郡の淀川と大和川(旧大和川)の合流地点付近(現在の城東区付近)にあった荘園で、難波津に近いことから領有者がしばしば変わったが、鎌倉時代末期には春日社や北野社が進出し、室町時代には北野社が上荘半分と下荘の全域を領有していた。

また、この時期には丹波猿楽の系統を引く猿楽集団が同荘地域に形成され、荘名より榎並座(えなみざ)と称されて、応永(1394-1428)から嘉吉(かきつ:1441-1444)年間にかけて全盛期を迎えた。

 

しかも、当地一帯は茨田堤築造(仁徳朝)によって陸地化した処で、その中のわずかな高地には、三好宗三(1508-49)によって築かれたのが榎並城(1532-49)である。

榎並城について、東成郡史には「榎並城址 榎並町大字野江336番地(小字渡守)に在り。今遺址存せず。 天文17年(1548)10月、三好宗三及子・政勝、此に拠り三好長慶に抗す。 翌年6月、宗三江口に敗死し、政勝 城を棄てて去る」とある。 

「榎並荘」について

・茨田堤の構築によって陸地化が進み、平安時代には農地が開墾されて荘園となった。

・鎌倉時代中期には摂関家の嫡流である近衛家が同荘を掌握し、室町時代には北野社(北野天満宮) が領有した。

・「榎並」の名は、この地が大川の南、つまり「江南」に「榎並」の字をあてたともいわれて おり、言い伝えによると、この地一帯は大榎の 繁茂した地で、その森に住む鬼女を北面の武 士が討ち取ったことから、この地を与えられ、 榎を伐採して開懇したことによって「榎並」の名 が起こったとも言われている。

 

<現・都島区> 毛馬、友淵、善源寺、沢上江(カスガエ)、内代 中野、野田

<現・旭区> 赤川、荒生、中、江野、南島、森小路、今市 千林、上辻、貝脇、馬場、別所、

      般若寺

<現・城東区>野江、関目、蒲生、今福、新喜多、放出、鴫野 

京街道は大坂城京橋口から、鯰江川に架かる野田橋を渡り、今の京阪モールの南側道路から新京橋商店街を北上し、野江・内代(うちんだい)・関目・森小路・今市を通って京都にいたる道でした。

この道に沿って流れていたのが榎並川で、野江橋(野江3丁目7番38号付近)の先で、都島区から流れてきた内代井路川(いじがわ)を併せ京橋に向かい、蒲生の墓のあたりで鯰江川(なまずえがわ)に合流していました。

つまり、京街道沿いに、今でいう谷町線の野江内代駅あたりから京橋駅方面まで北から南へ流れる井路川が榎並川と呼ばれ、現在の城東区と都島区の境界になっているのだ。