文禄堤
大阪市の北東部に接し、北側は淀川に面していて、門真市を取り囲む形で形成されており、市域はまとまりのある形ではない。
というのも、花博記念公園鶴見緑地の西半分は守口市で、例えば「咲くやこの花館」は大阪市域ではなく守口市域に立地しているのだ。
また、パナソニックの登記上の本社所在地は門真市大字門真になっているが、本社事務所は国道1号沿いの守口市八雲中町に立地している。
地名の由来として、豊臣秀吉による大坂城築城に伴う「まもり口」が転じて「守口」となったとするのは俗言である。
昭和38年発刊の守口市史(本文編第1巻)によれば室町期には既に下仁和寺庄森口/守口村と2つの表記が存在しており、初期は前者の表記が多く見られる。
同書は守口周辺から生駒山地(特に飯盛山)へ広がっていた原生林の入り口の意から生じた「森口」が、石山本願寺/大坂城との関係で軍事的意味の「守口」に変化したと結論している。
義天寺の前の通りは「文禄堤」と呼ばれる、旧街道となっています。
文禄堤とは、豊臣秀吉が文禄五年二月(1596年)毛利輝元・小早川隆景・吉川広家の三氏に命じて、伏見城と大阪城を結ぶ通路として修築させられたもので、淀川左岸に沿って造られたこの堤は、国道の陸路として役にたっていました。
昔は義天寺の北側あたりに、淀川の本流が流れており、守口あたりでかなり蛇行し、今の淀川と義天寺の間に狼島(守口市役所周辺)と葭島の南側の岸があり、今も義天寺には、船をつなぎ止めたと言われる椿の木の跡が北側にあります。
また、義天寺の前にある大きな題目石は、かつて野江の刑場にあって豊臣氏の残党を処刑した曰くのあるもので、刑場が明治になり廃止されたときに移された。
元禄七年(1694年)に守口町と公称され、お寺の現存する本町あたりは、文禄堤があった所なので、古くは「堤の町」と言われていたこともあったようです。
文禄堤の西側、現在の守口市役所や守口警察署などは当時は淀川の河床で、すぐ眼下に淀川を眺めながらこの堤道を、現在の本町から桜町、来迎町、浜町への東側一帯が旧守口宿である。
古くから、京都-大坂を結ぶ道筋は淀川の水路を利用して船で往来するのが主で、陸路をとった場合は、八幡から東高野街道をとるか、樟葉から枚方に出て飯盛山の西麓から大坂に入るかのいずれかであった。
この文禄堤は従来の陸路交通に大きな変化をもたらし、たびたび流れを変えた淀川流路は固定され船運の便も計られるとともに、堤の上を京街道が走ることになったのである。
安土桃山時代の文禄3年(1594年)、豊臣秀吉は、毛利輝元・小早川隆景・吉川広家などの毛利一族に命じて淀川に堤を築かせ、慶長元年(1596年)に完成した。
河内平野に、淀川が氾濫するのを防止するのに役立ち、京都と大坂を最短で結ぶ陸路を整備させることもできました。
これが文禄堤で、その長さは約27キロメートルといわれていますが、淀川の改修等でその多くは姿を消しており、ここ守口にのみ面影をしのぶことができます。
大坂から2里の近距離にあるため、旅人の泊休は少なく、西国大名は西国街道を利用し、17世紀末からは淀川舟運に30石舟が登場したこともあって、交通量は少なかった。
しかし、この守口は米・菜種・綿花などの農産物の集散地として重要な機能をはたし、商業活動の活発だったところであった。守口宿の南の端は本町一丁目の義天寺辺りで、下見附のあったところといわれている。
守口宿は、大坂を出て最初の宿場になるのだが、そもそもが東海道53次に京街道を取り込んで、伏見・淀・枚方、そして五十七次として最終の57番目の宿場(1619年)になるのである。
とは言え、枚方宿へ3里、大坂へ2里という近さであったため、宿場の運営を左右したかどうかはわからないが、清滝街道(大坂-四条畷-奈良)の分岐点だったこともあり、旅籠や茶屋がたちならぶなどしたようである。
それはそれとして、この街道によって、京と大坂の往来が早くなり、ヒトの流れが増えたことには違いない。
この守口宿の南端が義天寺あたりになり、そこから文禄堤になるのだが、その下を国道が通っており、守居橋・本町橋の二つに橋を渡れば、新しいい立派な高札場が立っている。
ここから北へ、一号線の八島町交差点まで約1km続くのだが、文禄堤を下っった辺りに高札場がかつてはあったようであり、その近くには本陣跡もある。
乱歩は当時、大阪の京阪電車沿線の外守口町に住み、毎日大阪まで電車で通っていたが、ある夕方、電車を降りて家に帰る途中、線路に沿った田舎道を歩いていて、鉄道の線路と人道との境に、立ち並んでいる古い枕木を、黒焦げに焼いて針金を張った、通行止めの柵に目をひかれた。
歩いていると柵の黒い棒がチラチラとあとへ流れ、棒と棒の間から向い側の地面が現れては消えた。乱歩は「そこに何かしら錯覚の種が潜んでいるような気がした」と語っている。
そのうちに太い棒柄の浴衣が頭に浮かび、さらに大阪障子のマイラ戸が聯想され、あのトリックが作り上げられたのだという。
『D坂野殺人事件』(1925年)は、乱歩によると、「誰かが不自然だといって非難した、棒縞の浴衣と、格子のトリックが、実は出発点であった」という。
乱歩にとって、こういう思いつきは全く「運」のようなもので、あとになると案外つまらないが、この思いつきに陶酔する程度の大小によって、出来上がる小説のよしあしも定まるのではないかと語っている。
下記の画像は、難宗寺境内の、樹齢約500年、高さ約25メートル、直径約1.5メートル、枝張約15メートルの大いちょうである。
文明7年蓮如上人は、戦乱の越前の吉崎御坊から河内国茨田郡中振郷出口 (現枚方市)に移られ、坊舎に引き入れた水路から淀川を利用し、河内、大 和、和泉、摂津の布教に過ごされました。
守口へは堺への途中立ち寄られ、 この御堂にて真宗の教えを説かれ、その教えに感動した来迎衆が全員揃って 帰依しました。
その開創の頃(文明9年)は、応仁の乱が鎮まり、戦国時代が始まった年で、当時の守口は、淀川の水路と河内や大和への街道の中継地点であり、交通の要衝でした。
難宗寺のこの地は、それより約130年前、浄土宗嵯陀派の開山実尊上人が来迎寺(現在佐太中町)を建立された跡地で、小さな御堂が残され、付近に住む来迎衆と呼ばれた人達がそれを護持しており、今も難宗寺の西側に来迎町の地名が残っています。
徳川家康は、秀吉により廃嫡された教如上人に京都六条に寺地を寄進し 東本願寺開創を支援し、全国で東西分派の深刻な問題が起こ り、寺内町守口も町を2分する騒ぎになりました。
その結果、新たに東本 願寺派の現盛泉寺(じょうせんじ)を建立し、本尊(願主実円師)は盛泉寺に、伽藍は西本 願寺派に残ることになり、これより町の住人は東西どちらかの門徒 になることを強要されました。(キリスト教弾圧政策)
・寛永の再興: 大阪夏の陣の兵火で集落ともども伽藍も焼失(1615)、本格的な復興は寛永15年、元毛利家の武将で豊前中津の浄喜寺住職村上良 慶師(石山戦争では本願寺武将として功あり)が、ご門主の命を受け旧茨田郡 の中本山として再興、以降明治までお留守居として法灯を継承されま した。
難宗寺から竜田通を横切って北へ進むと、右側に東御坊と呼ばれる盛泉寺があり、街道は浜町瓶橋(つるべばし)跡を通り、国道一号線を横断し、そこから道は左へと緩やかにカーブしているが、曲がったところに一里塚を示す記念碑が建っている。
一里塚は街道の両側一里ごとにその目印として設けられ、普通遠方からも見えやすくするためその上に榎の木を植え、旅人の便をはかった。
起源は明らかではないが、慶長九年(1604)徳川秀忠が東海、東山、北陸の諸街道を修理したとき、このような一里塚を築かせたという。
この一里塚は守口への入り口でもあり、出口でもあった。
そして、これは旅人の守口への目印で、同様な塚がこの向かい側にも存在した。
ここは守口宿の北端「上ノ見付」で、「下の見付」同様、宿場の出入り口で、大名が宿泊したり通過するときには、問屋や庄屋などの村役人や本陣主人などが正装して送迎したところであった。
守口東高校を過ぎて、府道から西にそれ、八雲公園・八雲小学校の西側の道に沿って正迎寺(しょうこうじ)へと向かい、守口市浄水場の北側を東に曲がり、淀川堤を上がったあたりに七番(村)の渡しの船着き場があり、その街道を挟んで向かい側には八坂瓊神社が鎮座している。
道の旅人は大日を右手に見て、佐太の渡し場まで行き、寝屋川市に入ることになるのだが、かつて摂津市鳥飼と守口市佐太の間にも、淀川を挟んで渡し船が運航されていましたが、道路網の整備に伴う架橋により、淀川で見られた渡し船は次々と姿を消していったのです。