暗超奈良街道
大阪・奈良・伊勢をつなぐ街道として、特に江戸時代以降多くの人で賑わった道は、暗峠(くらがりとうげ)を越えるのだが、難波・平城京に至るには最短の距離であった。
つまり、防人や唐朝鮮の外国使節も、この道を通って平城京と行き来したことになる。藤原京から遷都したのは元明天皇の時代710年であった。
ところでその区間なのだが、大阪府大阪市中央区高麗橋から始まり、玉造‐東成区今里‐ 深江 -東大阪市御厨 - 菱江 - 松原宿 - 箱殿 -(暗峠)となるのだが、ここは伊勢参りの出発点でもある、玉造稲荷神社から始め、旅の安全を願うのだが、暗峠まで約14kmの距離になる。
逆に伊勢参りを終えた江戸の人々は、上方(大坂)へ向かうのには、この玉造を目指したことになるってことかな。
俳聖松尾芭蕉も、1694年(元禄7年)菊の節句9月9日に、最後の旅路でこの街道を通ったのである。ところでこの玉造は、大坂城の南から真田山にかけての地域名称と言えばわかるように、あのNHK大河ドラマ『真田丸』(2016年)の地でもあるからには、幸村や秀頼公とお会いしてからの旅になる。
【暗越奈良街道こぼれ話】
この街道は、暗峠を目指す、ほぼ直線の最短距離になる。その旅人たちを『暗越奈良街道を歩いた旅人たち』(杉山三記雄)では11人ピックアップしている。
役行者(634-701)・行基(668-749)・豊臣秀長(1540-1591)・蘇我理右衛門(1572-1636)・井原西鶴(1642?-1693)・松尾芭蕉(1644-1694)・与謝蕪村(1716-1784)・慈雲(1718-1805)・暁鐘成(1793-1861)・オールコック(1809-1897)・鑑真(688-763)
しかし、大和川付け替え工事(1704)以前の街道は、たびたび氾濫を起こした、何本かの河川を渡らねばならなかったはずである。その疑問を抱きながらこの街道を走った。
《玉造稲荷神社》
大坂夏の陣(1615)で焼失した社殿は、元和5年(1619)に徳川幕府城代氏子寄進によって再建されたが、寛政元年(1789)、急崖に面していた社殿を少しでも平坦化するため、東横堀川の浚渫(しゅんせつ)で出た土砂を、町人らが運び込む「砂持」が行われた。
《真田丸顕彰碑》
元和8年(1622)4月、白牟(はくむ)和尚が、「真田丸」があった場所に、幸村・大助父子の冥福を祈るために堂舎を創建。それが心眼寺(しんがんじ)である。寺の定紋は真田家の六文銭と定められ、山号は真田山だ。そして2014年、信繁四百回忌に、徳川時代には許されなかった墓碑がついに建立された。
《二軒茶屋・石橋旧跡》
街道をはさんで「つる屋」「ます屋」の2軒の茶店があり、見送り人とここで別れを惜しんだり、名物の深江の菅笠を求めるなどしたところである。「つる屋」の方は、明治40年ごろまであった。碑の東側、南北の道はかつて大坂城の東堀として利用された猫間(ねこま)川の跡で、ここに大坂では初めての石橋(黒門橋)が架けられていた。
阿倍野区高松の地に端を発する猫間川は、源ヶ橋を通り上町台地の水を集めながら、生野区から東成区・城東区とJR環状線に沿って流れ、森之宮の砲兵工廠の西北端で平野川に合流していた長さ4.5キロメートル、川幅約10メートルの川です。
また、玉津橋の下を流れる平野川は、寛永13年(1626年)頃から、柏原舟が河内の柏原と大坂の八軒家の間を輸送水路として利用し、最盛期には70艘の柏原舟が上り下りしたと言われています。かつての平野川は生野区の「俊徳橋」北辺から東成区の「中本橋」までは極めて曲折して流れ、しばしば氾濫の元になったので大正12年(1923年)に直線に改修され、現在の流れに変わりました。
《深江稲荷神社》
深江・片江など、【江】のついた地名からして停止土であることは想像できるけれど、明治18年の淀川大水害は、当時の大阪府全体の世帯数の約20%となる約71000戸が最大で約4mも浸水し、家屋流失約1600戸、同損壊約15000戸という甚大な被害が発生した。
市内においては、被災人口は約27万人。天満橋・天神橋・難波橋の浪華三大橋も流され、安治川橋に至っては漂流物が橋に引っ掛かって川を堰き止める様子を見せたので急いで爆破されたのだ。
この間、大川の堤防をわざと決壊させ、そこからこの膨大な水を流してしまおうと「わざと切れ」と呼ばれる江戸時代から度々行われてきた方法をとることとし、現都島区の網島町にあった大長寺(現在は藤田邸跡公園)横の堤防を切った。
そしてこの地には、伊能忠敬が宿泊していた。と言うのも、第六次の四国測量を終えて大坂へ戻ってきたのが文化5年11月21日のことであった。深江村へは26日に到着し翌、暗峠を選ばず、龍田越に向けて出立した模様である。
《足代笠のモニュメント》
最も驚かされたのは、行政上の地名としての布施は現存しないにもかかわらず、布施文化が息づいてることである。そしてそこには、合併を繰り返した村々の歴史もあるのだ。
古代にはこの一帯は河内湾と呼ばれる大阪湾の奥にある小さな湾であったが、次第に海から分離して湖となった。その湖が大和川を経て上流から運ばれてくる土砂が堆積したことによって徐々に陸地化したが、こうした経緯から湿地・深田が多く、また洪水に見舞われやすい土地であった。
《高井田地蔵》
大阪平野を北流し、淀川(旧淀川)に注いでいた大和川の、旧河道の位置に現在も流れているのが長瀬川である。その旧大和川は、古代から水運として利用されてきた。中世以降は大和川の支流である平野川とともに大阪と奈良を最短距離で結ぶ水路としての利用も活発だったのだ。そのための渡し地蔵があり、この場合の最短は、柏原口を抜けての大和路であったように思える。 しかしこの項でのもう一つの収穫は、慈雲和尚に出会えたことである。
《蕪村句碑》
戦前の長瀬川は、30mの川幅だったと言う。大和川付け替え後12年ほどたって生まれた蕪村は、吟行するために長瀬川を訪れたのではない。歌枕としての大和川はもはやなく、峠の『菊の香に』の句碑も建立されていなかった。秋と春の違いはあれ、蕪村は、芭蕉の道を辿りながら句想を練っていたはずである。そしてついに、ここにきて『啼(く)かわす』にひらめいたのだ。
《御厨天神社》
御厨は、朝廷や神社などに魚鳥・米穀・果物の類を納める土地を表している。東大阪北部は古代から中世にかけて旧大和川が大きく蛇行し絶えず洪水の恐れがあったが、古くからの「水」との戦いの結果、この辺りは海の幸、川の幸など豊穣な恵みがもたらされ、延喜五年(905)、この付近に広がる湖沼一帯を「大江御厨」と定めたことに由来する。朝廷には蓮や雑魚のすし、塩魚などを献上していたことが記録に残されている。
奈良街道から北に向かい参道がのびる天神社は集落の中央にあり、境内には推定樹齢900年といわれる東大阪市内最古のクスノキがある。また、境内にある石灯籠はこの辺りにあったという奈良~平安期の薬師寺の遺品であり、奈良秋篠寺とのもと一対をなすという。
《八剱神社》
工事以前の大和川の時代、単純に平野川、久宝寺川(長瀬川)・玉櫛川(菱江川・吉田川)が流れており、すべてに橋が架かっていたわけでもないだろう。たしかに、日本 の川 は大 き くないが急 流 であ る。洪水 時の破壊力 は大 き く、 橋 の流失 はまさに日常茶飯事で あ ったろう。 しかし、秀吉の時代、紀ノ川に橋が架かっていたと言うのなら、旧大和川にも橋は架けられていたのかもしれない。それとも、お膝下には戦略上、橋は架けなかったのであろうか?
渡船が日常の風景だとしたら、大和郡山から大坂城に向かう秀長や、京都から大坂に入った徳川軍は浅瀬を手繰って渡ってたのであろうか?
《枚岡神社》
江戸時代に暗峠の村に大和郡山藩の本陣が置かれ、参勤交代路になっていたが、殿様が乗った籠が滑らないようにするために、50mほどの石畳が敷かれている。大阪側のきつい所で最大傾斜勾配37%、傾斜角度約20度が一般的だが、簡易測定では48.7%、26度と言うとんでもない数値がでたりする。まさに、自転車野郎にとっての聖地なのである。