二軒茶屋・石橋旧跡

 

 

環状線玉造駅近くに、『日之出通り商店街』がある。秋田センセ幼かりしころは大変な賑わいようで、「三光館」など寄席小屋も多数あったと言う。 通常商店街名は町名を付けているのが普通である。しかるに六つの町(東雲町一丁目、中道黒門町、山之下町、中道唐居町、南玉造町および木野町)で構成されていたので、通称名として日之出通りと称した。現在は大阪市の中央部に位置するが、命名時は大阪市の東端に位置し、東は太陽の出る方角(日の出)にあたるので、この名前が付いたともいわれている。また、日の出の勢いで発展する事を願ったとする説もある。(西村貞彦『我が街 日之出通り』)

江戸時代から奈良街道が人の往来も盛んとなり、この街道の起点であった玉造に「つるや」「ますや」という二軒の茶屋が建てられ、旅人等の休息の場として繁昌したと伝えられています。茶屋が二軒あったところから二軒茶屋といわれ世に広く知れわたりました。(現・大阪市顕彰史跡)

この二軒のそばを流れていた猫間川(ねこまがわ)に宝永8年(1711年)に幕府の命によって橋が架けられたのが石橋です。正式には黒門橋というが、石で造られたものだったので通称石橋と呼ばれています。

ここからわき道を通って玉津の交差点の出て、玉津橋(橋長16m、幅員13.4m)へ向かう。享保二十年の摂津史に橋の名が記されていることから、江戸時代初期には既に架けられていたとされる。「玉津」とは、玉造の港という意味で、付近に船着場があったことが名称の由来であると言われている。江戸時代には平野川、猫間川の水運が盛んで、周辺は街道と交わる交通の要所として賑わっていた。

大正時代のころの橋の構造は、橋板に丸太を並べてその上に粘土を敷き詰めた土橋で、鉄製の欄干が配置されていた。1968年(昭和43年)に架け替えられた際には橋の構造高を低くするためにプレビーム桁が日本で初めて採用された。現在の橋は1986年(昭和61年)に架け替えられたもので、「増修改正摂州大坂地図」を銅板にエッチング複写した6枚のパネルが欄干に取り付けられ、歩道部には石畳風の敷石が敷かれている。

契沖(1640-1701)墓所』と刻まれているけれど、実は妙法寺(東成区大今里)にある供養塔である。

延宝7年(1679)から元禄3年(1690)まで住職をし、この寺で水戸徳川家の光圀(1628-1701)から委嘱された『万葉代匠記(まんようだいしょうき)』など多くの著作を生み出しています。

元禄3年(1690年)に慈母が当寺で死去されたのを機に、現天王寺区飼差町の円殊庵(えんじゅあん)に移り、元禄14年(1701年)62才の生涯を終えました。

街道に戻り、その道なりを進むと今里筋に出る。この南北の筋を渡ったところに、エッチングされたような説明文が掲げられている。そこには、堺屋太一の『暗越奈良街道 シルクロードの終わるところ』とある。

昔から、玉造から各方面に延びていた諸街道の中継点だった大今里村であり、暗越奈良街道・北八尾街道・十三街道など、東へ向かう街道の分岐点でもあった。

暗越奈良街道は、大阪と奈良を結ぶ最も近い道だ。

それだけに、古来、様々な人と物とがここを通った。古くは、天平時代、大仏開眼に招かれたインド僧が(736年)、次いで中国の鑑真和上が(753年)、ここを通って奈良の都に入った。正倉院に残る宝物の中にも、この道を運ばれたものが多かったことだろう。この道は、シルクロードの東の端なのだ。

戦国時代には、大和郡山城主となった豊臣秀長が何度も往来したことだろう。百年余を経た元禄7年(1694年)、松尾芭蕉がここを大阪へと歩いていた。そして、それから十年後(1704年)、大和川の付替えで、遠藤の景観は一変した。多くの川や沼が消え、豊かな綿畑に代わったのだ。

翌年(1705年)伊勢参りが爆発的に流行した折には、一日7万人がこの道を伊勢に向かっていた。この道は、伊勢街道のはじまりでもあった。

このまま街道沿いを走ると、国道308号線に出る。これが、奈良に向かう国道であり、道の旅人も、玉造を発った時からの長堀通と思っていた。ところがこの道を西に向かうと、千日前通りになるのだ。つまり、今里ロータリー(昭和30年終了も名を残す)を中継に、五叉路になっていたのだ。その合流道路が、(北西)に長堀通り・(南西)に 千日前通り、そして(東)に国道308(主要地方道大阪枚岡奈良線)というわけだ。もちろん(南・北)に今里筋なのだが、今も昔も交通の要所であることに変わりはない。