御厨天神社
小阪北口から、道の旅人は御厨(みくりや)に入ったけれども、「厨」は台所の意味で、御厨は、朝廷や神社などに魚鳥・米穀・果物の類を納める土地を表しているのだ。
というのも、この東大阪北部は、古代から中世にかけて、旧大和川が大きく蛇行し、絶えず洪水の恐れがあったが、古くからの「水」との戦いの結果、この辺りは海の幸、川の幸など豊穣な恵みがもたらされたと言う。朝廷には蓮や雑魚のすし、塩魚などを献上していたことが記録に残されている。
また、奈良街道から北に向かい、参道がのびる天神社(あまつかむやしろ)は集落の中央にあり、古くは御厨神社と呼ばれ、近世以後に現在の社名(通称:てんじんしゃ)が使われるようになりました。第二寝屋川南東岸近く、街中のやや微高地に鎮座。
明治以來、現在の東大阪市御厨地区と長田地区とで、どちらの地区の神社が式内の意支部神社であるかで争つている。御厨は天神社といい、長田は長田神社という。
裁判にもなつたこともあり、現在もまだ解決されていない、論社となったままである。
意支部という社名の難解さが、この神社をわからなくしている一因である。社名の意味やこの神社を祀つた氏族がはつきりしないので、神社の創建その他の由緒はわからない。延喜式神名帳だけにみえる神社である。
この地の奥方・置方の地名が意支部に通ずるということから論社とされているが、御厨天神社は古くは御厨神社と呼ばれていたことから、式内社からもれていたとの伝もある。
御厨の村は、古くから大坂と奈良を結ぶ、暗(峠)越奈良街道筋にあたっていて、街道筋の村々には、本陣札を残す家があります。植田家もその一つで、片桐且元の甥であり、茶道石州流の祖である、「片桐石見守(いわみのかみ)様御本陣」と、「松平甲斐守(かいのかみ)様御本陣」と書かれた木札が残されている。
江戸時代の御厨の村にはこのような大名が、足を留めた家が他にもあり、街道を行き来する大名が、休憩していったものと考えられます。
現在の植田家は、その頃の建物の内、主屋部分だけが残っています。その規模は、桁行(東西)10間、梁間(南北)5間~5間半からなり、昔は宿を配した別棟の座敷や茶室があって、そこで大名や来客をもてなしたそうです。 家へ出入りも、ウチニワ(土間)入る人達と、玄関(シキダイ)から座敷へ通る人達に分けられ、家屋の中の室と室の境は、四本溝の敷居で区別されていました。ウチニワも広く、米や綿を積み上げてたのではないか、と考えられています。
カマヤは、現在は改造されていますが、昔は大きなカマドがあって、釜がかけられていました。シキダイは、力士の羽黒山が踏み割ったので、現在は段と靴脱ぎ石に代わっています。屋根も現在は瓦葺きですが、もとは草葺きであったようです。
江戸時代も文化・文政頃の貴重な民家として、昭和52年5月26日に、市の民俗文化財として、指定を受けています。現在もご家族で居住しながら保存されていますので、一般公開はされていません。
植田家のすぐ東に三井新田会所跡がある。大和川付け替えによって長瀬川・楠根川・菱江川河床 に開発された菱屋新田を管理していた会所。新田地は 3 ヶ所に分散していたが、会所の機能は楠根川右岸の当 地に集約されていた。開発者は新家村の菱屋庄左エ門・ 岩之助で、享保17年(1732)に越後屋 ( 三井家 ) の所有となる。小さな祠は玉岡神社と言い、会所により管理されていた。
【旧菱屋中顕彰碑】は、平成時代の区画整理の町名変更の際、「菱屋中」の地名が無くなった事を機に建てられたのである。
天保 7 年 (1836) の絵図の写しによると主屋は梁間 6 間、桁 行 8 間程度と推測される。土間は 20 畳程度と小さい。 敷地東側には池や築山、祠を配した庭園を、西側には土 蔵や納屋、南側には長屋門をもつ。また、敷地の北側と 東側には堀がみられる。会所は昭和 30 年ごろに廃止さ れ、敷地西半は道路になった。
東大阪には「菱屋西」「菱屋東」と菱屋と名の付く町名があり、これは江戸時代の大和川付替えによって新田開発された菱屋西新田(長瀬川跡)菱屋東新田(菱江川跡)が、現在もそのまま町名として残されている事によります。それで「菱屋中」は大和川付替え後、旧楠根川を新田開発した「菱屋中新田」だった場所ですが、その後は菱江の藤戸家の所有となり、大正六年(1917)に「藤戸新田」と改称されました。「藤戸新田」は現在も町名として残っています。
ここから、第二寝屋川を渡るにあたり、説明だけしておくと、旧大和川の本流である長瀬川は、東大阪市に入ると多少の屈曲はあるものの概ね北流し、国道308号をくぐる辺りから向きを北西に変え、大阪市に入ってすぐの城東区諏訪で第二寝屋川と合流する。
そもそもこの川は、寝屋川・恩智川の水害対策として1969年(昭和44年:竣工年)に開削された新しい流域で、かつての楠根川とは言えないまでも、長瀬川とともに旧大和川の水系として遺しておくために、その流域であることだけ記しておきたい。
道の旅人は、あらためて東大阪市域の村の存続に思いをはせた。もちろんそれらは想像もできないことなのだが、ただこの街道を通してだけでも、その難儀をと思っていたのだが、奈良時代に難波と平城京を最短距離で結ぶ道として設置されたとある。この時代は、防人や唐・朝鮮の外国使節もこの道を通って平城京と行き来した。『五畿内志』では南都道と表記されている。果たして、無事にこれらの河川を、渡りえたのであろうか?