枚岡神社

 

松原宿から、いよいよ道の旅人も暗峠を目指すことになる。その最初に横たわっているのが恩智川なのである。八尾市および東大阪市東部の生駒山地からの小河川を取り込みながら北上し、大東市住道駅前で寝屋川に合流する。現在ならその川も、水走(みずはい)橋を渡れば済むことなんだ。しかし、当時の旅人たちは、難なくこの川を渡り得たのであろうか?

数千年前の昔からほぼ現在の位置に沿って流れていたといわれている。現在の大東市域には「深野池」という大きな池が存在し、恩智川はその池に注いでいた。

宝永元年(1704年)の大和川の付け替えによって、深野池は無くなり、川床の一部に恩智川の流路が設けられ、住道付近で北河内地区からの寝屋川と合流するようになったのだ。 

箱殿の辻に出て、さらに東に向かうと東高野街道に出会う。

この南北に走る東高野街道(別名、京道とか紀伊道と いわれる)が昔の浜(河内湾の時代)だったと言われている。

道標の横に弘法大師 を祀る祠堂があるが、もともと交差点の東南角に建てられていた。横の自然石は、以前は田んぼのあぜ道に架けられていたが、踏んだ人が次々と災難にあうのでここに移されたという。

まさに歴史が交差する箇所であり、往時は両街道の要衝として、行きかう旅人で賑わっていたのだ。

そしてこの交差点は、もと宝蔵新家と呼ばれた村の東端にあたり、通称“宝蔵新家の四つ辻”と呼ばれている。

それにしても、暗峠の街道はいつごろからこの東高野街道を横切るようになったのであろうか?整理されたのは、江戸時代からだと言うのだが、大和大納言は大坂城に何度も往来していたと言うんよ。   

東高野街道は、京の都から高野山までを結んだ街道。京の僧侶が高野山へ修行に出る際に、よく利用した街道です。高野山への参拝は貴族の間で流行となり、やがては武士、商人、一般庶民までもが参拝へと高野山を目指して、この街道を歩きました。また、この街道沿いには「弘法の井戸」と呼ばれる水飲み場が所々にあり、街道を行き交う人々は、その場で休息の一時を過ごしました。

戦国時代、激しい戦乱のおかげで全国の街道は荒れ果て、庶民が安心して通行することは極めて困難でした。天下統一を目前にした織田信長は、諸国の統一を行う上で街道の整備は欠かせないと考え、街道の大改修を行いました。この作業は、豊臣秀吉へと受け継がれ、最終的には関ヶ原の戦いによって天下を手に入れた徳川家康へとゆだねられます。

冬の陣では、家康の三男秀忠は京都から生駒山山麓を南下し、十一月十六日豊浦村の中村正教宅に宿陣した。

翌年の夏の陣では五月六日八尾・若江の激戦により豊臣方に大打撃を与え、この夜家康一行は冬の陣にならって同じく豊浦村の中村家に宿陣した。 このとき正教は菖蒲の節句にちなんで木綿を謙譲し家康は“勝布"として大いに喜んだという。

家康が宿陣した中村氏は佐々木源氏の流れをくむ。もと近江国鯰江城に住し鯰江氏と呼ばれていた。

つまり大坂の陣において徳川方は、京都伏見城から石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に至り、洞が峠(ほらがとうげ)を越えて、生駒西麓(いこませいろく)を南下(なんか)、東高野街道を進んで、箱殿東から本来の奈良街道の一筋南の豊浦村に入ったってことであろうか?

中村氏屋敷あとは現在の枚岡中央公園から南側の一画にあって、まわりに濠をめぐらした豪荘な屋敷であった。そして家康は、当主に感状と刀を与え、奈良街道と京街道の取り締まりの権限を授与した。

そのまま東に進むと、【宝幢寺(ほうとうじ)と子安地蔵】に出会い、ここで本来の街道に戻り、枚岡神社に向かう。

枚岡神社の創祀は、皇紀前まで遡り、初代天皇の神武天皇が大和の地で即位される3年前と伝えられています。神武御東征の砌(みぎり)、神武天皇の勅命を奉じて、天種子命(あめのたねこのみこと)が平国(くにむけ)(国土平定)を祈願するため天児屋根命・比売御神の二神を、霊地神津嶽(かみつだけ)に一大磐境を設け祀られたのが枚岡神社の創祀とされています。

枚岡神社は、永く神津嶽にお祀りされましたが、孝徳天皇の白雉元年(はくちがんねん)(650年)9月16日に、平岡連らにより山麓の現地へ奉遷されたと伝えられています。

神護景雲(じんごけいうん)2年(768年)に、天児屋根命・比売御神の二神が春日山本宮の峰に影向(ようごう)せられ、春日神社に祀られました。このことから当社が「元春日(もとかすが)」とよばれる由縁であります。

枚岡神社のすぐ北側のハイキング道の横に整備された池が、姥が池である。

 

ひとりすぎ程、世に悲しき物はなし。

河内の国、平岡の里に、昔はよしある人の娘、かたちも人にすぐれて、山家の花と、所の小歌に、うとふ程の女なり。

 

これが、『西鶴諸国はなし巻五』の“身を捨てて油壷”の出だしである。

「世間の広き事、国々を見めぐりて、はなしの種をもとめぬ」と序にあり、諸国の怪異を連ねて、「是をおもふに、人はばけもの、よにないものはなし」と締めくくっている。

ところで油壷に話を戻すと、「十八の冬より、おのづから後家立てて、八十八になりぬ。さても長生きはつれない」と綴られている。その老婆は、明神の灯明を盗んて頼りとしたのだが、そういえば、『羅生門』の時代の老婆は、死人の髪の毛を盗んでいたことを今昔に思い出す。

西鶴もまた、龍之介と同じように説話集を読んでいたに違いがなく、浮世とばかりは言えぬ、今生に生み出される、化け物の姿を見ようとしていたのかもしれない。

元禄7年(1694)9月8日に伊賀上野を発った芭蕉(1644-1694)は、その日は奈良に泊まった。

 

菊の香や ならには古き 仏達

 

そして翌9日に暗越えて大坂に向かったのである。その日が重陽の節句にあたり、句碑が遺されている。

 

菊の香に くらがり登る 節句かな

 

昼間に暗峠を越え、その日の夕刻に大坂に入り、生國魂神社でも句を作っている。

 

菊に出でて 奈良と難波は 宵月夜

豊浦村の庄屋を務め、俳人でもあった中村來耜(らいし)が、1799年(寛政11年)芭蕉没後100回忌の追福のため建立したものが勧成院にある。と云うのも、街道沿いにあった句碑が土砂に流され行方知れずとなり、明治22年に建てられたのが上記の画像なのだが、大正2年(1913)の大雨で出現したと言う、曰く付きの句碑なのだ。因みに、中村來耜(らいし)の句碑もある。

 

流るれば 細き音あり  山清水

 

陽暦で言えば、10月27日の出来事である。奈良から峠を越えてきた芭蕉は、背中を押されるようにこの坂を下ったかもしれない。

大阪側では、きつい所で最大傾斜勾配31%の急勾配がS字カーブになっており、慣れない者が走行すると、登りきることができず立ち往生するともいわれる酷道(国道308号線)なのだ。その激坂の傾斜角度が26度の個所もあり、自転車野郎が挑戦したくなる難所でもあるのだ。

この時、芭蕉は下血(痔)に悩んでおり、弟子の仲裁のための大阪行きとはいえ、50歳での下り坂を、その日程からすれば休むことなく越えたようである。

 

菊の後暗峠(クラガリ)越ゆる腓(コムラ)かな    (岡井省二 『猩々(ショウジョウ)』)

【腓】とは”ふくらはぎ”のことである。大阪側から登った経験のある人は、この一句の重みがズッシリとくる。上りで1時間かかる道も、下りは30分程に縮まるのだ。

 

京都へゆくことは見合わせることを承諾していたので、京都を避けるためにまわり道をしなければならなかった。そのためにおそらくヨーロッパ人がいまだかつて足を踏み入れたことのない土地をとおることになったー。

大阪市街から出るには、馬にのって人の歩く速さで50分かかった。われわれは、イネ・ムギ・ワタでおおわれた広い平原にさしかかった。        (オールコック『大君の都』)

 

江戸へ下るのに、天皇のお膝下である都を拒否されて選んだのが、暗越奈良街道であった。外国人として初めて富士山に登ったオールコックではあったが、暗峠については一言も書かれていなかった。と言うのも、自分の馬に乗ってこの峠を越えようとすれば、「あまりに険しいので馬の鞍がひっくり返りそうになる」と言う、鞍返り峠を承知してのことだったからであろうか?