東高野街道
平安時代弘仁7年(816年)に、嵯峨天皇(786-842)から空海(弘法大師:774-835)が下賜され、修禅の道場として開いた日本仏教における聖地の1つが高野山である。
かつて京都から高野山への参詣道として用いられたのが、この街道である。
起点は京都府八幡市の、石清水八幡宮であるが、ここでは洞ヶ峠(八幡市と枚方市の境)を起点とする。
河内国の東部を通り、長野町(大阪府河内長野市)で西高野街道と合流し、以南は高野街道として紀見峠・橋本・高野山へ至る。中世に入ると、この道を通って熊野詣でや高野山参りが盛んに行われた。
いつ頃に形成されたかは定かでない。
既存の集落を経ず、出来るだけ直線になるように通されており、大阪の平野にかつて存在した河内湾の汀(みぎわ)線の道であったが、計画に基づいて建設された古代道路であると言われている。
淀川水系の河川や、かつて存在した巨大な河内湖(深野池)周辺の湿地帯を避けて生駒山地の麓を通り、河内国府(現在の藤井寺市)付近で大和川を越えると石川の左岸に沿って通った。
平安時代には駅が設置され、京と河内国府を結ぶ官道としても重要であったとされる。
その後は官道としての重要性は薄れたものの、仏教信仰の一般化に伴い、高野山参りが盛んになると参拝道として賑わうようになったが、高野山(こうやさん)は、和歌山県北部、和歌山県伊都郡高野町にある周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地に位置しており、高野山という名称の単独の峰はない。
【東高野街道こぼれ話】
この街道は、いちばん東側に位置する、府下でもっとも長い街道であり、古代の河内国を南北に横切っていく。
そして目立つのが、帰化人たちの痕跡であり、おそらく古代国家は、彼らによって形成されたのではないだろうか?
そしてまた、河内国は豪族たちが競い合った勢力下にあり、とりわけ、南北朝時代や戦国時代の戦跡に向き合うことになるのだ。
《山田池の月》
山田池公園は、枚方八景のひとつであるが、ここから離れた藤阪に、王仁の墓がある。
日本の文化を育み、発展に大きく貢献した人物であるはずなのに、ポツンと墓地があるのには解せないでいる。
というのも、藤坂村の山中に、鬼(オニ)墓と呼ばれる2個の自然石があり、歯痛やおこりに霊験があると伝えられていたのだ。
つまりこの塚には、平安時代の坂上田村麿が、蝦夷征伐によって蝦夷の2人(アテルイ・モレ)を京都へ連行したが、帰順しないので打ち首にして埋めたとの説があるのだが、この鬼は、王仁が訛ったものとして今日に至っているのだ。
《交野ケ原七夕伝説》
交野ケ原には七夕伝説があり、在原業平や交野少将が出得てくるだけでワクワクするものだが、今想えば、ここからが、天の岩船のような巨石文明との遭遇の始まりである。
その七夕も、地上にありて見上げるものかもしれないが、なんと地上を離れて、‟星のブランコ”を目指したのだ。
星のブランコは、標高180m、全長280m、最大地上高50mの木床版吊り橋で、人道吊り橋としては全国的にも最大級の規模なのだ。
こうして、地上の星になるべく、‟ぶらんこ”を降りたった道の旅人は、この先の東高野街道をめざしたのだ。
それらのほとんどは、神社仏閣史跡ではあるが、人を育て町を育ててきたものであり、つないでほしいことを願って・・・。
《秦河勝の墓》
寝屋川に入ったら、日本のシンデレラである、『御伽草子』の‟鉢かづき”が案内してくれた。
しかしこの寝屋川に、『秦河勝の墓』があるとは思ってもみなかった。
秦河勝と言えば、聖徳太子の側近であり、太秦で代表される京都だとばかり思っていたのだ、
ところが、秦一族が渡来する6世紀以前に、既に唐に東方キリスト教の「景教」が伝わっており、その寺院は大秦寺と呼ばれていたという。
つまり、厩戸皇子と呼ばれた太子の逸話も、納得できそうなのである。
《忍陵神社》
ここで初めて、河内キリシタンに触れることになるのだが、この時はまだ‟その程度”でしかなかった。
しかも、四條畷神社の主祭神が小楠公:楠正行であることも、この時はまだ大きな気持ちで迎えるわけではなかった。
しかし、この辺りで楠公と言えば、この正行を指し、大楠公を凌ぐ人気だと言える。
かねてより死を覚悟しており、後村上天皇よりの弁内侍賜嫁を辞退している。
とても世に 永らうべくもあらう身の 仮のちぎりを いかで結ばん
《野崎観音》
飯盛山と言えば、三好長慶の城があったところであり、宣教師フロイスも訪れている。
その山頂には、京都方面を向いている正行の鎧像があり、大東市の市役所前には、三好長慶の鎧武者が建立されている。
しかし、何よりも驚いたのは、この『野崎観音の謎』として、隠れキリシタンの存在を知ったことである。
この東高野街道に、南北朝時代と戦国時代が見え隠れするのも、京都と言う聖地を臨んでのことであったのかもしれない。
《石切劒箭神社》
神武聖蹟よりもすごいことが、この東大阪にあったことを初めて知った。
それはここを舞台にした太宰治の小説、『パンドラの匣』である。
それともう一つが、神武に立ちはだかった長髄彦が、石切神社に祀られているという話だ。
そもそも祭神は、饒速日尊(にぎはやひのみこと)であり、長髄彦の妹との間に生まれた、可美真手命(うましまでのみこと)の親子である。 つまり、物部氏のルーツには、大きくかかわっていることになる。
《俊徳丸鏡塚》
木村重成(1593-1615)の父と兄は秀次事件に連座して自害させられたのだが、助命された母が秀頼の乳母となり、重成は秀頼(1593-1615)の小姓となる。
河内街道に彼の墓があるけれど、それと並行して走る東高野街道の山手には、約200基ばかりの古墳群が現存している。
その多さから千塚とも呼ばれているのだが、ここで初めて、古代国家の形成は、帰化人を以てなされたことを知らされるのだ。
画像は‟河内ドルメン”・・・。
《大和川治水と横穴古墳群》
大和川治水は、そこから北の風景を変えさせたかもしれない。
つまり、大和川と石川の合流地点だが、大和川の東が蘇我氏なら、石川の西側は物部氏として渡来人・帰化人が分散したのかもしれない。
豊臣方の武将:後藤又兵衛の碑が、玉手山古墳群の一角にあるが、柏原市にも多くの古墳があり、とりわけ高井田古墳は、史跡横穴公園として整備されているのだ。
《道明寺天満宮》
律令において、国府(こくふ)と言えば、令制国の中心地になるが、ここの地名である、 国府(こう)遺跡の読み方に触発された。
つまり、国府が置かれたと言うより、高(こう)を意味する丘陵地の呼び方ではないだろうか?
少々、帰化人かぶれになっているのかもしれないが、石川より西側だとすれば物部氏の勢力内だが・・・。
太宰府へ発つ前に立ち寄ったという菅原道真であるが、その菅原氏は、渡来人説もある土師(はじ)氏から改めたものであり、この道明寺一帯は土師ノ里とも呼ばれている。
《応神天皇陵》
ここにも、豊臣方の武将:薄田隼人の墓があるが、講談本の‟狒々退治”で有名な、岩見重太郎のことでもある。
ここから羽曳野市に入り、世界遺産に認められた古墳群の中に入るが、実在性が定かでない応神天皇だが、記紀的には、ここから渡来人の流入が始まったのではないだろうか?
ところで、安閑天皇の皇后である春日山田皇女は、南200mの所に、「古市高屋陵」として管理されている、高屋八幡山古墳に眠っているのだが、その愛情については知る由もない。
《旧杉山家・石上露子》
大阪府の南東部・南河内に位置する、富田林(とんだばやし)の旧市街-寺内町(じないまち)は言わば 「旧家の生きた博物館」 なんよ。 今でも戦国時代の町割(都市計画)を留め、江戸時代以降の町家(まちや)約40軒が昔の姿そのままで残されているんだもんね。
そこで訪れたのが、石上露子の自宅なんだけれど、旧家のお嬢様たちは、当たり前のように生きてきたわけじゃないんだ。
《楠木正成》
楠木正成は、河内金剛山の西、大阪府南河内郡千早赤阪村の出身だけれど、この河内長野市に色濃く残っている。
その象徴なのが、楠木氏の菩提寺である観心寺であり、ここで学んだ正成に、大江時親との運命的な出会いがあったのだ。
それが兵法書『闘戦経』なのだが、この像に十日市で出会わなかったら、知る由もなかった。