大和川治水と横穴古墳群

 

柏原の市域で人々が生活を始めたのは、今から約2万年~3万年前のことだと考えられ、市域内からは、旧石器を始め、縄文土器や弥生土器などが多数出土しています。

4世紀から7世紀頃に作られた、遺跡や古墳は、現在でも柏原市内に数多く残っており、古代より大和川が、交通の要所として栄えたいたことを物語る。

つまり、大和川と石川の合流点を中心とする一帯は、わが国でも有数の古墳の密集地で、市域内にも、古墳時代前期(4世紀頃)の松岳山古墳(国史跡) 群や玉手山古墳群、後期から終末期(6~7世紀)の平尾山古墳群、そして、線刻壁画で全国的に有名な高井田横穴群があるんよ。

さらに付け加えておくと、松岳山古墳群からは、国宝に指定されている最古の、船王後(ふねのおうご)墓誌が出土している。

銘文表「船氏(ふねうじ)王後首(おびと)は王智仁(ちじん:生没年不詳)首の孫、那沛故(なはこ)首の子です。乎裟陁(おさだ)宮治天下天皇(敏達天皇)の時に生まれ、等由羅(とゆら)宮治天下天皇(推古天皇)に仕え、阿須迦(あすか)宮治天下 天皇(舒明天皇)の時にはすぐれた才能を認められ、冠位十二階の第三等にあたる大仁の位を賜りました

銘文裏「辛丑年(641)12月3日に没しました。その後、戊辰年(668)12月に松岳山上に埋葬しました。夫人安理故能刀自(ありこのとじ)と共に同じ墓に埋葬し、墓は兄の刀羅古(とらこ)首の墓と並んで作りました。この地 は永遠に神聖なる霊域であり、侵してはなりません

 

つまり、2基1対の夫婦墓と言うことになるが、この古墳は4世紀の築造であり、その石室も1基である。

船氏(ふねうじ)は河内国丹比郡野中郷(大阪府藤井寺市・羽曳野市)を本拠地としたとされる渡来系氏族で、欽明天皇14年(553年?)に、蘇我稲目が派遣した、王辰爾(おうしんに:智仁)が船の税を数え記録したことで氏名を賜ったという。

それも、半島から渡来した、もっとも古い中国系の帰化氏族なのだ。後漢霊帝の子孫だといい、秦始皇帝の裔という秦氏(はたうじ)とならび称せられる。

 

柏原市に入った道の旅人が、この古墳群から紹介したのは、まさにここから河内の国が始まったと思うからだ。つまり、帰化人たちの文化は、此処から北へ拡散していったようにお思われる。

とは言いつつも、ここらでいったん、東高野街道にもどることにする。

ちはやぶる 神世も聞かず 竜田川

から紅に 水くゝるとは

 

伊勢物語106段、「むかし、男、親王たちの逍遥し給ふ所にまうでて、龍田河のほとりにて」のあとにこの歌があり、百人一首にも選ばれている。

ところが、我が業平(825-880)の伝説は、23段(筒井筒)にあり、幼馴染と結婚したにもかかわらず、河内国高安郡(八尾市)に通っていた男の話なのだ。

 

新しい女のもとへ送り出す妻の歌に、竜田が読み込まれていた。

 

風吹けば沖つ白浪龍田山 夜半にや君がひとり越ゆらむ

 

これを垣間見ていた男は、河内へ行かなくなってしまった。となれば「めでたし、めでたし」なのだが、その高安の女の歌もある。

 

君があたり見つつを居らむ生駒山 雲な隠しそ雨は降るとも

 

龍田から河内国高安郡への道筋については、大県(おおがた)郡(大阪府柏原市)を経由したとする説と、平群町十三峠を越えた(八尾市)とする説がある。

しかし、業平の時代は都は平安京であり、その屋敷も山城国だと思われるのだが、平城天皇の孫でありながら、不遇の清酒運時代を過ごしていた。

その評価は、『日本三代実録』の卒伝に「体貌閑麗、放縦不拘」と記され、昔から美男の代名詞とされる。この後に「略無才学、善作倭歌」と続く。基礎的学力が乏しいが、和歌はすばらしい、という意味である。

大県(おおがた)の業平道を進むと石(いわ)神社に突き当たる。かつて、この辺りに智識寺と呼ばれる古代寺院があった。

聖武天皇(740)・孝謙天皇(749・756)が難波宮と平城宮を往来する際にここを訪れ、礼拝例仏されたという。

廬舎那仏の姿と同寺を支える人々の姿に魅了された聖武天皇は、東大寺大仏造営を発願(743)されたといわれている。 その後、智識寺は室町時代ごろに廃れたとされる。

天平勝宝元年(749)、10月になると孝謙天皇(718-770)は茨田宿禰弓束女(まんだのすくねゆつかめ)の宅を行宮(あんぐう・かりのみや)として、智識寺に行幸し、大仏の完成が近付いた報告をしており、752年に開眼供養会が実施されている。

天平勝宝8歳(756)2月、『万葉集』によると、孝謙天皇は聖武太上天皇(701-756)・光明皇太后(701-760)とともに難波宮へ行幸し、河内六寺にも立ち寄っています。

ところが、『続日本紀』では、「天平勝宝8歳2月24日、孝謙天皇が難波宮行幸の際、柏原に立ち寄り、智識・山下・大里・三宅・家原・鳥坂の六寺を参拝した」とだけ記されている。

但し3月1日、太上天皇は難波の堀江のほとりに行幸されたとあるが、4月14日には天皇が太上天皇の病状を詔しており、翌日に帰途に就いた。それにしても万葉集に、天皇家を讃える歌が献上されていないのは、宮廷歌人がおらなかったのであろうか?因みに、聖武天皇はこの後、6月4日に崩御しており、その状況ではなかったかもしれない。

しかし、大伴家持は同行していたようで、堀江の歌は三首ある。

 

堀江漕ぐ 伊豆手の舟の 楫つくめ 音しば立ちぬ 水脈早みかも   (4460)

堀江より 水脈さかのぼる 楫の音の 間なくぞ奈良は 恋しかりける (4461)

舟競ふ 堀江の川の 水際に 来居つつ鳴くは 都鳥かも       (4462)

江戸時代半ばごろまでの古い大和川は、柏原市の北で長瀬川(久宝寺川ともいう、本流)・楠根川・玉串川(吉田川と菱江川に分流)など幾筋にも分かれ、吉田川など一部は寝屋川が注ぎ込む深野池(大東市周辺)・新開池(東大阪市の鴻池新田周辺)の両池に注ぎこんでいた。

これら大和川の支流は土砂が堆積した天井川で、たびたび河内平野は氾濫の被害にあった。

河内平野の洪水防止や農業開発を目的として流路を西へ付け替える構想は古くは奈良時代以前からあり、治水工事の歴史は古墳時代に遡る。

しかし、付け替え工事の完成を見るのは、今米(いまごめ)村(東大阪市)の庄屋中甚兵衛によってであった。

新しい川の流路となる村々からも付け替え反対の請願が起こったが、1703年(元禄16年)10月、幕府はついに公儀普請を決定し、翌1704年(宝永元年)2月、付け替え工事が開始され、わずか8ヶ月後の同年10月に竣工した。

小林一茶(1763-1828)もまた、寛政4年(1792)から同10年までの約6年間、西国、上方方面を旅行しており、その途中、寛政7年(1795)、明石から大坂に入り、天王寺、平野を通って、4月3日に葛井寺と道明寺に詣でた後、当時すでに景勝地として有名だった玉手山を訪れている。

 

寺は、道明寺という。わずかに行けば玉手山、尾州公の荼毘(だび)所(安福寺)あり。竜眼肉(りゅうがんにく)の木ありて、このかいわいの景勝地なり。艮(うしとら)【注:巽(たつみ=南東の誤り)の方にかつらぎ山見ゆる。折りから遊山人處々につどう。 (西国紀行)


西国、上方方面への旅行を記した、一茶の著書「西国紀行」には、玉手山で詠まれた俳句2句が収められている。  

正面の碑に、

初蝉や 人松陰をしたふ比(ころ) 

 

右の碑に、下山して遠望

雲折々 適(まさ)に青菜見ゆ 玉手山

 

まさか一茶が、大坂に立ち寄っていたとは、この句碑に出会うまで知らなかった。一茶の西国行脚中の寛政5年(1793年)は芭蕉百回忌に当たっていて、俳句界全体で、芭蕉へ帰れという運動が巻き起こっており、関西の俳人たちの交流も行われていた。  

その一茶の句の上方に、後藤又兵衛基次之碑がある。

5月1日、後藤又兵衛基次、薄田隼人正兼相ら平野に到着。真田幸村、毛利勝永ら天王寺に布陣。5月5日、幸村らは、基次と会合、6日を期して道明寺で合流し、国分において徳川方を迎え撃つことを約した。同日夜、基次は、約2千8百の軍勢を率いて平野を進発。奈良街道を東進し、6日未明、藤井寺に到着した。

しかし、濃霧のため、他の諸隊は、予定どおり到着できなかった。このため、基次は単独で道明寺に進出したが、このときすでに徳川方は国分に入ってしまっていた。

そこで、基次は、後続の諸隊を待つことなく、先鋒の山田外記、古沢満興に命じて、石川を渡り、当初の作戦どおり、小松山(玉手山)を占領させた。 山田外記の旗幟が山上に立ったのを見た基次は、急ぎ本隊を小松山に登らせた。

午前4時ごろ、後藤隊の先頭は、山を下って徳川方の諸隊と激突、攻め登って来る徳川方とのあいだで、小松山の争奪をめぐって激しい戦闘が繰り広げられた。

しかし、徳川方は、水野勝成隊(約3千8百)・本多忠政隊(約5千)・松平忠明隊(約3千8百)・伊達政宗隊(約1万)の合計2万3千もの兵力。

初めは優勢だった後藤隊も衆寡敵せず、しだいに圧倒されて三方から包囲された形になり、基次は討ち死にしてしまった。

 

時に6日午前10時ごろ、激闘実に6時間であった。基次の討ち死にの原因は、「矢きずを負って」とも「鉄砲に胸を撃たれて」ともいわれている。負傷した後に自害した。吉村武右衛門が介錯したという。

北部には生駒山系から続く山がそびえており、そして南側は、大和川を挟んで金剛山系に連なる山地になる。道の旅人は、東高野街道を辿って、八尾・柏原の古墳の多さも然ることながら、枚方からの来し方を想う。 それは、大和国の大和川が河内国を北進していったように、渡来人もまた、中河内から北河内へ拡散していったように思えてくる。

つまり、朝鮮からの、中国系渡来人である漢氏(あやうじ)・秦氏(はたうじ)のことなどが浮かんできたりするのだが、そのことはまた、南河内に踏み込んでからの話に・・・。

大阪府内では、高井田横穴と安福寺横穴、そして玉手山東横穴など、いずれも柏原市内しか確認されておらず貴重な存在である。

安福寺横穴の、船に乗る騎馬武人の絵は、渡来人像を語るに有名である。

そして、日本で最古級の横穴式石室を持つのが高井田山古墳なのだ。5世紀後半ごろの築造)と見られ、百済の25代武寧(ぶねい)王(462年 - 523年)陵と規模や石室の状況、さらに火熨斗(ひのし)や金層ガラス玉製品が副葬されているなど共通点が多く、当時の百済との結びつきが窺える。 

要するにこの古墳の持つ意味は大きい。雄略天皇の時期、百済からの技術工人らと共に渡来してきた集団、その王クラスがこの南河内に居住し、ヤマト王権の支援の下で、近畿地方では最初に大型の横穴式石室を築いたという説だ。その被葬者は、日本書紀の雄略天皇5年(西暦461)に渡来してきたとされる昆支(こんき)王(?-477)であるという。

『三国史記』によると、第21代蓋鹵(がいろ)王(?-475)の子で22代文周(ぶんしゅう)王(?-477)の弟であり、24代東城(とうじょう)王(?-501)の父。その子が武寧王なのだ。『日本書紀』によると、雄略天皇5年(461年)、日本に人質として献上された昆支王だが、雄略天皇23年(479年)4月条では、「百済23代三斤(さんきん)王(464?-479)が急死したため、当時人質として日本に滞在していた昆支王の5人の子供のなかで、第2子の末多(また)王が幼少ながら聡明だったので、天皇は筑紫の軍士500人を付けて末多王を百済に帰国させ、王位につけて東城王とした」と記されている。

なお、古市古墳群とほぼ同時期に、鉄の大量生産基地である大県遺跡(柏原市大県)が存在していたことだけを付け加えておく。