熊野街道
熊野街道(くまのかいどう)は、京から大坂を経て熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)への参詣に利用されていた。また、説教浄瑠璃の小栗判官にちなみ、小栗街道(おぐりかいどう)とも云われたりしている。そしてその街道は、摂津大坂の渡辺津(大阪市中央区天満橋付近)を起点にしているのだ。
2004年に熊野古道は、「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として、ユネスコの世界遺産(文化遺産における「遺跡および文化的景観」)として登録された。街道沿いには、熊野権現を祭祀した九十九王子が設けられ、参詣者は参詣道中の無事を祈念しながら熊野三山への旅を続けたのだが、まさに【祈りの街道】である。
そこで道の旅人は、斎場(阿倍野区)を出発点とした。つまり、葬儀を行う場所と云うより、墓地のある風景なのだ。道の旅人の輪道(サイクル道)では、苦行にもならず、信仰も程遠いのだが、一瞬たりとも、古人(いにしへびと)たちの鼓動を聴きわけようと、気力を振り絞るつもりでいるのだ。
熊野へ参らむと思へども、徒歩より参れば道遠し、すぐれて山峻(けわ)し、馬にて参れば苦行ならず、空より参らむ、羽賜(たまわ)べ若王子 (『梁塵秘抄』編者:後白河法皇)
【熊野街道こぼれ話】
平安時代中期ごろから、熊野三山が阿弥陀信仰の聖地として信仰を集めるようになったのだが、その三山とは、熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の3つの神社の総称である。
平安時代後期には、神仏習合と相俟って、熊野の地は浄土と見なされるようになった。
《阿倍野王子神社》
この熊野街道を、墓地の見える場所(阿倍野斎場)から出発した。この墓地には、五代友厚が眠っている。この五代友厚のことを、ほとんどの人は忘れているかもしれないが、東の渋沢栄一・西の五代友厚と呼ばれ、明治維新における“大阪の経済”を立て直した。ところが、2015年度下半期放送のNHK連続テレビ小説『あさが来た』で大ブレイクした。
阿倍野となると、どうしても出てくるのが、陰陽師の安倍晴明である。そして晴明も、母の面影を追いかけたであろうか?しかし、何よりも驚いたのは、この地に兼好法師が隠棲していたことである。もちろん、あの著名な『徒然草』が、ここで書かれたとは言わないけれど・・・。
じゃ、その兼好法師はなんのために?と言うことになるのだが、この阿倍野の地で、顕家が戦死したからであるとは言いすぎであろうか?と言うのも、兼好と父親房は親友だったのだ。
阿倍野は、近隣商業地域に入るけれど、表と裏の道が並んでいる。歴史のある街は、どこでも同じだと想うけれど、文化のある街として歩みつづけて欲しい。
《万代池》
住吉は、さすがに歴史がつまった街である。古来からの住吉大社は、大阪を落ちつかせている。それだけ、大阪の守り神と言える。
この住吉に来て知り得たことは、忘れ水・忘れ草・忘れ貝の三忘れに、忘れ土が加わったことであろうか?それだけ絶好の地なのである。
そしてここに、阿倍野から続いている南北朝の揺れが見えてくる。後醍醐天皇の後を継いだ御村上天皇など、どちらかと言うと、南朝方が色濃くのこる地である。
しかし、住吉について語るとしたら、津守家についてもっと言及しなければならない。そうすれば、帝塚山古墳についてもわかることがあろうかと想ったりする。
まぁ、古墳のことは別にしても、帝塚山という区域は、特別である。阿倍野から万代池(住吉)に入るとき、裏と表の道が交叉する。そこからふたたび出て来たら、帝塚山であるが、もし時間があれば、是非とも帝塚山の“迷いの道”に入って欲しい。
《遠里小野橋》
ここから大和川を渡るのであるが、蟻の熊野詣と呼ばれた頃の熊野街道は、もちろん陸続きであった。
ところが大和川付け替え工事によって、遠里小野村は南北に切断されたわけである。
そんな遠里小野村で、正岡子規に出くわしただけじゃなく、鉄道唱歌にまで、歌いこまれていたんだ。
さらに忘れてならないことは、大和川の決壊で失われた生命や、修復のために使われた墓石の供養のために、雲上地蔵尊が建立されたことである。
《仁徳天皇陵》
浅香山と言う地があり、それが聖徳太子と浅からぬ因縁があるとはおもわなかった。しかし、太子に因んだ話はあちこちにあり、万代池にも太子の話がある。他にも、桃ヶ池という所が阿倍野にあり、龍神とからんだ伝説が残されている。
ここで、阿倍野王子から二つ目の王子社境王子をたどるのだけれど、その間には、どうやら津守王子(住吉)というのもあったらしい。
この境王子社から南へ行くと、方違神社があり、その裏が反正天皇陵である。この付近に、詩人伊東静雄が居をかまえていたという。
同じ堺市の大浜と言うところに、彼の詩碑(詩集“夏花”『燈台の光をみつつ』)がある。さらに言えば、阿倍野にも彼は住んでいて、詩碑(詩集“春のいそぎ”『百千の』)が松虫通と住吉高校(詩集“わがひとに与ふる哀歌”『曠野の歌』)の中にもある。
ところで、仁徳天皇陵と言えば、百舌鳥古墳群の代表であり、世界遺産のためにはもっと言及する必要があるけれど、ここは皇后の磐之媛の4首を載せている。
《大鳥大社》
“仁徳天皇陵”を世界遺産にという話がある。当時としては、まるで日本を護るようにその玄関口に陵を築いたのだ。それだけで充分に世界遺産の価値があると思う。
この仁徳天皇陵を挟んで、北側に反正天皇陵、南に履中天皇陵が控えている。息子たちに守られた仁徳天皇もまた、東の陵に眠る父、応神天皇を守っている。
この仁徳天皇が、群雄割拠の日本を統一したことに間違いはない。そして、『日本書紀』において神武天皇が必要であったように、『古事記』においてヤマトタケルが必要であったように、天皇家において“応神天皇を強調”するよりも、その皇子であった“仁徳天皇の血筋”であることの方が重要であるように思う。
この仁徳天皇陵を南に進み、大仙公園を抜けて、履中天皇陵からJR津久野駅(行基生誕の家原寺)に向かう。要するに、大和川付替えで生じた熊野街道は、大鳥神社の西側を駆けぬけることになるけれど、熊野古道はおそらく東から入ったと思う。(注:家原寺については機会があれば書き込みたい)
《等乃伎神社》
実を言うと、この地に来て、仁徳天皇に対するある種の考えがわいてきたのだ。“生駒から淡路島”、それだけで日本を統一したと言うには無理があるだろう?
もちろん、玄関口を押さえただけでは意味をなさない。しかし、仁徳天皇には皇后磐之媛命がいる。彼女は葛城襲津彦の娘である。葛城と言えば、古代大和の主要な豪族である。大和に宮を置かずとも、平定されていたのだ。
そして淡路島は、瀬戸内を押さえたことを意味している。瀬戸内は、外敵に対し備えられていた。また、皇后の嫉妬を受けた妃達は、日向や吉備の媛たちである。それぞれの豪族達が傅いた証拠である。また、反正天皇は、淡路島で育てられたと言う。この瀬戸内海を押さえることによって、内外ともに安定期に入ったということになる。
《信太の森》
阿倍野の晴明神社から、ここ信太の森まで、母を尋ねてきた。たしかに、都市化の波は森を襲っていた。山が削られ、樹木が伐採され、かえって都市が息苦しくなっているのに気づいているだろうか?未来を子孫達に残していけるだろうかと、ふと不安に思ったりする。
後鳥羽院の「平松は・・・」と言う歌碑がある。この歌碑がなかなか見つからなかった。そのはずである。少しばかり、熊野街道から外れた公園にその歌碑があったのである。
“明け行く鐘はなにはあたりか”と詠んだ、その“なには”には、どのような想いが込められていたのだろう?
“枕詞”とか“歌枕”とか耳にしたことがあると思うけれど、名所旧蹟を訪れることで疑似体験をしたりする。
もちろん、誰もが神社仏閣を目指したわけではなく、名所見物に出かけた旅人も多い。この場合の目的地は、過去の歌人の歌心を刺激した場所、いわゆる「歌枕」・・・。
古の歌人と同じ場所に立っているという感慨に浸るだけで、来たかいは充分にあった。葉なの名所を訪れたとき、季節が違って花が満開でなかったとしても、それはそれでかまわない。 (ドナルド・キーン『日本文学の歴史 古代中世篇6』)
《行基淵と恋の淵》
わたしたちは、容易に西行や芭蕉になれるわけではないが、道の旅人の気分にはなれる。なかには、“女西行”と呼ばれた後深草院二条のような女房もおられるが、女性なら美しくなりたいし、和泉式部や小野小町にあやかりたいと思うだろう。しかも今年(2008年)は、“源氏物語千年紀”の年であれば、紫式部の縁を訪ねたくもなる。これが歌枕の心境であろう。
ひょっとしたら光源氏に出遭えるかも知れないが、ここは恋の淵に沈むよりも、“行基の淵”をお薦めする。
仏教にはいろんな宗派があるけれど、願いは一つである。道の旅人が追いかけていきたいのは、この行基の道である。
行基菩薩の開基した寺院は四十四もあり、開湯伝説では二十前後の温泉がある。掘削(くっさく)した貯水池の大きな所は、昆陽池(兵庫県伊丹市)・狭山池(大阪狭山市)、そしてこの久米田池(大阪府岸和田市)である。さらに五つもの港を整備したとされいる。
他にも橋を架けたりして、数知れぬ社会事業を成し遂げた。こんな偉大な足跡を踏むことはできないけれど、ほんとうに“ちっぽけな善意”を施したいと思う。
ちっぽけな 善意でもよし 心満つ (高橋操子)
《半田一里塚》
わたしたちの人生にも、一里塚がある。それが何年の周期でめぐってくるかは人によって違うけれど・・・。
大きくわければ、誕生(生まれたことへの感謝)から始まって、結婚・定年と言うことになる。それでいくと、二十年・三十年と言うことになる。もちろん、細かい周期などはいくらでも来るし、決断を迫られることもしょっちゅうあるだろう。
しかし、人生のスパンを考えたとき、誰もが皆、そんなことは意識していなくても、何事も“老いの学習に向けて・・・”と思える。
天女に見(まみ)え、一生をともにすることができれば、それだけで幸せである。ところが不思議にも、気持ちは優しくありつづけようとするのだが、いつのまにか言葉がぞんざいになる。愛してる気持ちは変わらないのに、お互いの言葉が詰問調になったりして、老いてますます短気になりやすい。老いに近づくにつれ、自分と家族ために生きる時間をもっと大切にすべきで、そのために、言葉に優しさを持ちつづけたいものである。
その一方で、老いてなお、夢を持ちつづけている人たちがいる。七十五歳で2回目のエベレスト登頂に成功した三浦雄一郎氏は、まさにその一人である。
とてもこの人の真似などはできないけれど、気持ちだけは負けずに、ほんの少しだけでもアンチエイジングに挑んでいきたい。それが“道の旅人の一里塚”である。
《蟻通神社》
仁徳天皇には、磐之媛との間に、履中天皇・住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)・反正天皇、そして允恭天皇の四皇子がいた。住吉仲皇子は、兄履中の婚約者を犯し、弟の反正に殺される。
しかし、ここで取上げるのは、第四皇子であった允恭天皇である。都は遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)《飛鳥の地に宮を設けたはじめての天皇》であるが、恵我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)に葬られ、それが国府市野山古墳(大阪府藤井寺市)に比定されている。その昔、河内と呼ばれた国に含まれる。このように陵だけを見ると、この一族が“河内王朝”と言えるのではないか?
しかし、ここでの話は允恭天皇のことである。ここに、その美しさが衣を通して輝くと言われた衣通郎姫(そとおしのいらつめ)を住まわせていた。その茅渟宮があったのである。とは言っても、熊野街道からはずいぶんと離れることになるが・・・。
そしてこの宮は、日根野という地にあり、この日根野がとてつもなく大きな領域であった。允恭天皇は、ここを狩猟地として通ったわけだが、この天女と見まがう衣通郎姫は、皇后の妹であり、皇后の嫉妬を避けたと言うより、この日根野の地に宮を置くことが必要だったのではないだろうか?ところがこの日根野の地は、歴史的にはもっと重要な地であったように思える一方、この章を蟻通神社として大幅に書き換えた。
《信達宿》
信達市場の歴史を考えるとき、平安貴族の行列だけでなく、文化人たちが往来し、蟻の熊野詣と呼ばれる庶民たちが活発に動く姿を想像したりする。そしてその市場では、魚をふくんだ海産物も所狭しと賑わしていたのであろうか?と想いを馳せる
「一寸法師」とか「浦島太郎」が住吉の話に出てくるけれど、ここには今様“花咲じいさん”がいる。その花の名を野田ふじと言う。四月末から五月にかけて、丁度ゴールデンウィークに見頃となるのだが、相手は生き物ゆえ、正確なところはわからない。
しかし、梶本さんの心意気が、その花房をとおして伝わってくる。“種の存続”は、「種の起源」を問うよりも難しい。
今『ダーウィン展』(2008年)が開催されているけれど、『進化』と『種の変異』を考え合わせると、どのような未来が待ちうけているのかわからない。しかし、今できることーすなわち、種が持続していける環境を残すことが、少なくともわたしたちの、子孫への“地球遺産”ではないだろうか?そんなことを考えさせられる、『砂川奇勝』がこの地にあった。
《山中宿》
この熊野街道府下南端の地で、二人の人物に出会えた。まずは小野篁(802~853)である。この小野篁の名が出たとき、空海・嵯峨天皇とともに三筆と称された橘逸勢(782~842)を思い出した。
と言うのも、紀州街道を探訪した折に逸勢のことを調べていたら、杉本苑子の『檀林皇后私譜』に出遭った。そこで、承和の変で護送されていく逸勢(はやなり)に、篁が声をかける場面があったのだ。
この逸勢の墓が、紀州街道から孝子(きょうし)へ向かう線路沿いにある。その孝子という地名は、逸勢の娘が、護送途中で亡くなった父の墓を建て、その傍で草庵を営み、孝行に尽したところからつけられたと言う。
篁もまた、遣唐副使に任ぜられながら(834年)、正使藤原常嗣とのいさかいから(838年)、病気と称して職務を拒否し、さらに朝廷を批判する詩をつくったために、嵯峨上皇の怒りをかい、隠岐に流されたことがあった。
それだけでこの人物の凄さがわかるというもので、異名は「野相公」と呼ばれ、その反骨精神から、“野狂”とも呼ばれた。しかも、篁が遣唐使に任ぜられたと聞いた白楽天は、彼に会うのを愉しみにしていた。
そんな逸話の多い篁であるが、ゆかりの子安地蔵が熊野街道沿いにあったのである。篁が閻魔大王を介して、逸勢に遇えたかどうかは定かではないが、逸勢は罪を許され、篁の亡くなった年に、従四位下を賜っている。
二人目は、田沼意次である。今の教科書がどのように書かれているか知らないが、わたしたちの時代は賄賂政治として名高い。しかし、今では、「意次は近代日本の先駆者」として、再評価が高まってきているのである。
山本周五郎は、『栄花物語』でこの意次をとらえているが、この周五郎にはもう一つ、『樅の木は残った』と言う作品がある。
それは、賊臣原田甲斐を忠臣に仕上げた画期的な作品である。このふたつの作品を考えただけで、真実はいつも闇の中であるような気がしてくる。
ところで、トム・ハンクス(看守役)主演の『グリーンマイル』と言う映画がある。これは死刑囚監房での話であるから、やがては電気椅子に送られる人たちなのである。そこへ大男が送りこまれた。彼は自分をうまく表現することができなかった。しかし、看守達は彼が奇跡を起こす人であることを知った。そして彼は無実であるにも関わらず・・・。
かつて、ヘンリー・フォード主演の『十二人の怒れる男』という映画があった。父親殺しの罪に問われた少年の裁判で、一人の陪審員が、証拠の疑わしい点をひとつひとつ調べ上げ、陪審員の気持ちを変えていったのを思い出す。
日本でも、来年(2009年)から裁判員制度が採用される。しかし、一般の人間がどうして人を裁けるであろう?必ずしも、思考と行為は一致しないし、逆の行動をとるパターンすらある。なによりも、うまく表現できない人たちをどうすれば救えるであろう?