半田一里塚
作才町の南端で府道(30号線)と別れ、古道を行くと39号線に出る。これを渡ると‟道の池(どうのいけ)”に至るのだが、今ではこの土手(古道)も行き止まりである。つまり土生町の交差点から30号線を駆けることになり、池の端辺りであろう‟いも膳土生店”の角を東側に曲がり、一筋目を右に折れて古道?から再び府道に出る。そして津田川にかかる虎橋を渡ると貝塚市なのだ。
ところがこの市域には、未だに貝塚遺跡を発見されていないのだ。果たしてこの地に縄文人が住み着いていたかどうかわからないが、ため池なら134個も存在し、その多くは1300年前から作られているのだ。そしてここから古道への入り口に入るのに、堂の池・唐間池へ向かうことになる。
門松は冥土の旅の一里塚
めでたくもあり目出度くもなし(一休『狂雲集』?)
ここで、半田一里塚に出くわしてホッとするのだが、この狂歌は唐突かもしれない。しかし、道の旅人にとっては、府道の緊張から解放されるひと時であり、あたかもお地蔵さんに出会ったような道しるべなのだ。
当時(平安時代中期)の熊野街道に一里塚があったかどうかわからないが、その古道跡にあたる道筋、すなわち大阪八軒屋浜を起点として、紀泉国境の境橋にいたる延長四百九十町にわたる路線上に、かつて一里塚の存在した事実を次のように竹山真次氏が指摘(難波古道の研究)している。
天王寺一里塚(大阪市)・塩穴一里塚(堺市)・長承寺一里塚(堺市)・伯太一里塚(和泉市)・大町一里塚(岸和田市)・半田一里塚〔麻生中一里塚](貝塚市)・貝田橋一里塚(貝塚市)・一里山一里塚(泉佐野市)・市場一里塚(泉南市)・垣原一里塚(阪南市)・境橋一里塚(阪南市)。 (辻川季三郎『和泉国の古道』)
しかし、一里塚の距離間は明確ではない。それでも、今で言う“道の駅”(江戸時代前期?)であったと思う。そこで旅人たちは、一息入れたことであろう。一日、四十キロ以上は歩いたであろう昔の人たちの健脚を思いながら、道の旅人も、サイクルロードの一里塚(トイレ休憩)を決めておかなくちゃと思うのであった。
その半田一里塚を南下し、古道はやがて道しるべ地蔵に行きあたるも、さらに南下して頌徳碑で水間街道と合流、そこで府道を渡ると新井ノ池(にいのいけ)に突き当る。これを南へ向かい、地蔵堂で水間街道(貝塚寺内町願泉寺ー水間ー蕎原)と別れ熊野街道を進むことになり、水間鉄道水間線(貝塚駅ー水間観音駅)の踏切を渡る。このまま街道を行くだけなら、貝塚は一里塚でしかないが、紀州街道の寺内町から水間寺までのラインこそ、今もむかしも貝塚たる所以のように思える。
さて、毎年二月の初午(はつうま)の日に、大阪府の貝塚市にある水間寺(みずまでら)の観音様に参拝する習わしがあります。老若男女、身分もさまざまな人達ですが、誰も信心のこころで詣でるワケではありません。実は皆、欲と道連れでやって来るんです。二月という寒い季節、はるかな田舎道を踏み分けて、まだ花も咲いてないこのお寺に集まって観音様を拝む、その目的は、各々その身分なりに、お金儲けを祈願(きがん)するためなのです。【井原西鶴『日本永代蔵』】
此処、石才の宮池に沿って古道を行くと、永録元年(1558)、根来衆が岸和田の三好氏と戦った際、その砦として築かれたのが積善寺(しゃくぜんじ)城(貝塚中央病院の向こう岸)である。その後、近木川沿いの畠中城や千石堀城などとともに、根来衆の出城として整備された。
この根来衆(ねごろしゅう)とは、戦国時代に紀伊国北部の根来寺を中心とする一帯(現在の岩出市に居住した僧兵たちの集団である。しかも、鉄砲で武装しており、傭兵集団としても活躍した。
根来衆と言われた僧兵は、不断に軍事訓練に励み、絹の着物を着用して世俗の兵士のように振舞、金飾りの両刀を差して歩行していた。
「ナザレ人のように頭髪を長く背中の半ばまで絡めて垂れ下げ、いかなる場合も僧帽を着用しなかった」 (川崎桃太『フロイスの見た戦国日本』)
ルイス・フロイス(1532-1597:ポルトガルの宣教師)の言を借りると16世紀後半の紀伊は仏教への信仰が強く、4つか5つの宗教がそれぞれ「大いなる共和国的存在」であり、いかなる戦争によっても滅ぼされることはなかった。それらのいわば宗教共和国について、フロイスは高野山、粉河寺、根来寺、雑賀衆の名を挙げている。フロイスは言及していないが、五つめの共和国は熊野三山と思われる。
天正13年(1585)、天下人を頂点とする中央集権思想に真っ向から対立する、寺社勢力や惣国一揆への紀伊攻めが行われた。
上方勢は、秀吉自ら指揮する100,000人、先陣は甥の羽柴秀次、浦手・山手の二手に分かれて23段に布陣した。さらに多数の軍船を揃えて小西行長を水軍の将とし、海陸両面から根来・雑賀を攻めた。これに対し根来・雑賀衆は沢・積善寺・畠中・千石堀などの泉南諸城に合計9,000余人の兵を配置して迎撃した。
ところで此の積善寺城は、熊野街道に沿った近木川の南岸部に位置し、交通・戦略上の要地であった。
3月21日夕刻、ついに防衛線の中核たる積善寺城でも戦闘が始まった。井出原右近(出原右近)・山田蓮池坊らの指揮する根来衆からなる城兵に対し、細川忠興・大谷吉継・蒲生氏郷・池田輝政らが攻撃を担当した。
城兵は石・弓・鉄砲を放ちながら討って出て、寄手の先鋒細川勢と激戦を繰り広げた。細川勢の犠牲は大きかったが、蒲生勢も戦線に加わり松井康之を先頭に攻撃して城兵は城内に引き籠った。翌22日、貝塚御坊の住職卜半斎了珍(ぼくはんさいりょうちん:1526-1602)の仲介により積善寺城は開城した。
浄土真宗の門徒集団の自治区であった貝塚に、根来寺から招かれて地頭(じとう:土地や百姓などを管理)となった了珍は、元あった寺を再興し、和泉国願泉寺初代住持となる。豊臣秀吉とは親密な関係であり、聚楽第建設(1586年2月着工、1587年9月完成)にも材木奉行として参加している。
このとき、秀吉が本陣を置いたところが丸山古墳である。この貝塚は、紀州(根来)攻めに向かう秀吉にとって、避けては通れない場所であり、それと同じように、根来衆にとっても、ここで徹底抗戦をして、食い止めなければならなかったはずであった。
かれらは死を恐れざること甚だしき人にして、その職業は戦争である。諸国大名は金銭をもって彼らを雇い入れる。かれらは日頃から鉄砲および弓の試射をなし、武技を重んじ腰に高価な剣を帯びる。この剣はヨロイを着た人を斬ること、鋭利な包丁をもって大根を切るごとしである。
(神坂次郎『熊野まんだら街道』より)
かれらとは、《ネンゴロ(根来)のボンズ(坊主)》のことである。これは、そのころ日本に来ていた宣教師ガスパル・ヴィレラの書簡の引用である。
ところで、何故、根来寺出身の了珍が仲立ちをしたのであろう?根来寺における戦いでは寺衆はほとんど抵抗を行わなかったため、焼き討ちの必要性はなかったが、兵士による放火なのか、寺衆による自焼なのか、結局は炎上してしまう。
法の師のおしへのままと思ふ身は つみもさはりもいかにあるべき(了珍)
壊滅した根来寺のことを思えば、この了珍の辞世の歌に、“これでよい”という思いと、“これでよいのか”という想いがにじんでいる。
このあと近木王子や鞍持王子が合祀されている南近義神社をまわるのだが、この地に本貫を置いたのが近義首(こぎのおびと)である。
どうやら新羅系の渡来人のようであるが、道の旅人は、旧街道を駈けつづけながら、かれら渡来系(他に百済系・高麗系)の恩恵をあちこちの地名で感じたりしていた。
「天女のごとき、よき女(をみな)をわれにたまへ」といふ。
優婆塞(うばそく)、夢に天女の像に婚(くなが)ふと見る。明くる日によく見れと、その像の裳の腰に、不浄染み穢れたり。行者観て、慙愧してまうさく、
「われは似たる女を願ひしに、なにぞ忝くも、天女専(もは)らにみづから交わりたまふ」とまうす。 (景戒『日本霊異記』)
和泉市の槙尾山施福寺にまつられていた吉祥天女像が、のちに近木郷の吉祥園寺に移ったと伝えられている。1201年(建仁元年)後鳥羽上皇一行が熊野詣の途中、この吉祥園寺(記録では吉祥音寺)で昼食を取ったことが『後鳥羽院熊野行幸記』に記されており、昼食後に王子権現社に参拝したとある。
吉祥天女がどのような女性か知らない。しかし、古来、吉祥天は、おがまれる仏さまというよりも、人々の中に入ってこられてともに苦しみ、ともに喜んで下さる大変身近な仏さまとして親しまれている。
吉祥とは繁栄・幸運を意味し、幸福・美・富を象徴する神とされています。密教では功徳天・宝蔵天とも呼ばれ、美女の代表としての尊敬を集め、五穀豊穣も信仰されています。因みに、吉祥天の系図は、鬼子母神の五百人の子供の中のひとりである。
道の旅人には、この豊満な女性が、弁財天とどう違うのかよくわからないのだが、女性はすべて菩薩であるように思えた。