大鳥神社

             ふるさとは 大仙陵の あるところ    (摩天郎)

 

大仙陵とは、仁徳天皇陵のことであるが、山と言うことで大山(だいせん)となり、大仙と呼ばれるようになった。

それに向かってあるのが、大仙公園であり、北東に大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、南西に上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)があり、両古墳に挟まれる位置に広がっており、整備された面積約81ヘクタールの都市公園(総合公園)で、園内にも小古墳が点在している。

大仙公園には堺市博物館・自転車博物館・堺市立中央図書館・堺市茶室(伸庵(しんあん)・黄梅庵(おうばいあん))・堺市都市緑化センター・都市緑化植物園・平和塔・日本庭園・大芝生広場・催し広場・平成の森・児童の森・ロックガーデン・風車・杉風舎・市民の森推進運動による記念植・主園路・櫻街道などがあります。

ちなみに黄梅庵は堺が生んだ茶道三宗匠(千利休(せんのりきゅう)・津田宗及(つだそうぎゅう))の一人である今井宗久(いまいそうきゅう)ゆかりの茶室です。

 この日(即位年67冬10月18日)、野の中から急に鹿が出てきて、走って役民(えたみ)の中に入り、倒れ死んだ。
 その急に死んだのを怪しんで、傷を探した。すると、
百舌鳥が耳から出てきて飛び去った。      耳の中を見ると、ことごとく食いかじられていた。
 そこで、そのところを名づけて、“百舌鳥耳原(もず
のみみはら)と言う。   

                          (日本書紀 第十一巻)
 
しかし、気になるのは、百舌鳥が耳の中を食いちぎっていたことである。

と云うのも、5日に陵地と定め、18日に築いていた時の出来事なのだが、普通なら“不吉”なことに違いない。

ところがこのあと、吉備の竜退治の話があり、鹿に変化(へんげ)したところを、県守(あがたもり)が斬り捨てたとある。

花の名は一年草もある故に忘れず星は忘れやすかり   (与謝野晶子)

 夜空を見て、星を語ることができれば、どんなにすばらしいことだろう?しかし、いくら星座の話を聴いても、もはや、都会では星を見ることができない。それならば、身近にある花の名前を覚えてみようと思う。
 もちろん、歌はそのような意味ではないのだが、昔の旅人なら、星を見上げて位置を知り、方

位を知ったであろう。しかし今様では、花のコトバに耳を傾けたほうが休まるのである。

 この歌碑を過ぎて、日本庭園の前を走り抜けるのだが、このコースの逆に、堺市博物館があり、その両脇には千利休と武野紹鴎が座しており、道の旅人は、招待客になることにした。

どちらが亭主で正客の立場にいるのかわからないが、茶の湯と言えば千利休であり、その師にあたるのが武野紹鴎である。


武野紹鴎は、村田珠光の草庵の茶を一層深化させ、簡略化させ、精神性をより高めたことから、

禅的な「佗び」の理念を打ちたてた人です。

だから、武野紹鴎は、茶道の洗練者と言われます。

 難しいことはわからないが、茶を飲むことはカラダに良いと思う。

今では自販機に、いろんなお茶のペットボトルが置かれている。

 それも良いだろうが、もし茶の湯の心得があれば、野点でもして茶を頂きたいものである。
 日常生活から、ちょっと離れて身を置き、その場所がおもてなしになると言う贅沢さを味わっ

てみるのも一興ではないだろうか?

 茶の湯とは、ただ湯をわかし、茶を点てて、飲むぱかりなることと知るべし
                                                              (利休百首より)

この大仙公園から、履中天皇(336~405)陵へと向う。

履中【国風諡号:去来穂別(いざほわけ)】天皇は、仁徳【国風諡号:大鷦鷯(おおさざき)】天皇の第一皇子であるが、この履中の漢風諡号が気になった。

例えば、弟の反正【国風諡号:瑞歯別(みつはわけ)】天皇は、【撥乱反正、世の乱れを治め、もとの平和の世に返す】ことに由来する。

そして仁徳と言う漢風諡号は、【徳をもって民を治めた】とに依るが、履中はさしずめ、、【中を履行する】と言うことになる。

つまり、仁徳の政治を引き継いだということであろうか?

彼の在位期間(400~405)は、六年であり、反正の在位期間(406~410)は、五年である。

しかし、彼らの父仁徳に至っては、在位期間(313~399)は、86年であった。

ここに「倭の五王」と呼ばれる時代があった。

すなわち、讃・珍・済・興・武のことである。

このうち、済=允恭、興=安康、武=雄略については研究者間でほぼ一致を見ている。

そして一般的には、讃=履中、珍=反正としている。

それは宋書に、「讃死弟珍立」とあるからだ。

しかし道の旅人は、この謎の5世紀に対し、仁徳の在位期間と履中の国風諡号から、讃は仁徳・履中の二代と考えている。 

上が仁徳天皇陵、下が履中天皇陵の画像である。

その間に挟まれているのが大仙公園なのだ。

 実は、この履中天皇陵は、仁徳天皇陵よりも古い円筒埴輪を持っていたのだ。

そしてその大きさは、全国で大仙陵古墳、誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市)に次ぐ第3位の規模の巨大古墳である。

こうなると、ココが仁徳天皇陵だと思いたくなるけれど、いずれにしろ陵(みささぎ)だけ考えれば、親と子が、まるでコピーされたように並んでいるんよ。

父の遺志を受け継いだかのような履中ではあるけれど、その皇居となると、大和にあるんだよなぁ。

 

仁徳天皇の崩御に際し、住吉仲皇子(同母次男)が皇位を奪おうとして叛するが、弟の瑞歯別皇子(後の反正天皇)に命じてこれを誅殺させ、翌年2月に即位して葛城黒媛を立后した。

 

皇后との間には磐坂市辺押磐皇子(いわさかのいちのへのおしはのみこ)を得ており、仁賢天皇・顕宗天皇の父である。

その後は国史(ふみひと)や内蔵の制度を整えたものの、即位6年3月に病気のため磐余稚桜宮で崩御した。

大和川付け替え工事以前は、この古墳の道を行きながら、熊野街道は大鳥大社へ向かっていたのではなかろうか?

ひょっとしたら津久野駅辺りでは、行基の誕生地である、家原寺まで足を延ばそうとしていたかもしれないが、道の旅人としても、ここは大いに悩むところだが、大鳥への道を急いだ。

そこには、平家の統帥への発端となった、平清盛の足跡があるからである。

 

かひこ(卵子)ぞよかへりはてなば飛びかけり はぐくみたてよ大鳥の神  (平清盛)

 

清盛・重盛父子も、熊野詣での途中、大鳥大社に寄っていた。

平治元年(1159年)、都で兵乱あるとの急報を聞き、鎮圧できたのはこの献歌のおかげであろうか? 

すなわち、「蚕よ 都に帰り着いたならば 飛べるように、はぐくみ育てたまえ、大鳥の神よ」と云う歌意であるのだが、そもそも、平氏の紋が蝶であり、その御加護を願ったわけである。

白鳥と化したヤマトタケルが、最後に降り立ったところに建てられたとされるのが、大鳥神社(大阪府堺市)であり、主祭神として祀られている。

 宮内庁により墓は、三重県亀山市の能褒野墓(のぼののはか)が比定されている。

その他、白鳥陵は、『日本書紀』に即して大阪府羽曳野市と奈良県御所市に比定されている。
 また、ヤマトタケルの息子が創始したといわれる建部大社(滋賀県大津市)もあり、ヤマトタケルは、古代英雄伝説のの中で、もっともポピュラーな皇子である。

とは言え、この地については、記紀に記されておらず、これは大鳥神社の「大鳥」という名称と日本武尊の魂が「白鳥」となって飛び立ったという神話が結び付けられたために起こった習合であると考えられ、元来の祭神は、大鳥連祖神(おおとりのむらじのおやがみ)だった。

この地大鳥を歌にした、堺で最も愛されている歌人が居る。それが与謝野晶子であるが、旧姓:鳳(ほう)は、“おおとり”とも読むことができるのだ。

 

和泉なるわがうぶすなの大鳥の 宮居の杉の青きひとむら

 

またこの神域は、千種森(ちぐさのもり)と呼ばれ、白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったと云い伝えられている。