第19代允恭天皇(仁徳天皇の第四王子)は、皇后から奉られた衣通郎女(そとおしのいらつめ)に心を奪われ、皇居とは離れた、藤原宮に住まわせていた。
「皇后はわが姉です。わたしに所為で常に陛下を恨んでおられ、また苦しんでおられます。そこで王宮(おおみや)を遠く離れてどこかに住みたいと思います。皇后のお心も少しは休まるのではないでしょうか?」
天皇は直ちに河内の茅渟(泉佐野市上之郷)に宮室を建てて住まわせたのだが、そこが日根野であり、遊猟の地でもある。それに託けて茅渟への回数が多くなっていったが、そのことを皇后から諌められ、稀にしか行けなくなったのだ。
とこしへに君もあへやも いさな取り、海の浜藻の 寄る時々を (衣通姫)
狩猟の地である日根野で、浜藻の歌とは奇異に感じるけれど、近くには樫井川が流れており、古代の海の近さを感じざるを得ない。そしてこの日根野の地が、古代において中心をなしていたとも考えられるのだ。
『古今六帖1285』に、読人不知(よみひとしらず)だが、姫の心境をうたったと思われる歌が載っている
いつみなる日根の郡のひねもすに こひてそくらす君はしるらむ
さらに樫井川上流を遡れば、日根神社に至るのだが、此処は御旅所まで戻り、夏の陣へ向かうことにした。冬の陣(1614年)で、夜討ちの大将と名を馳せた、塙(ばん)団右衛門直之の墓がある。
大阪方が、府中から貝塚に向けて南進していたとき、東方の紀伊和歌山藩主浅野長晟(ながあきら)の先頭部隊は、佐野の市場で軍議を開いた。家老浅野佐衛門佐は、「佐野において防戦すべし」というが、重臣亀田高縄(たかつな)はさらなる主張をする。
「何よりも勝たねばならぬ。佐野は海辺に近く山嶽(さんがく)地帯からは離れ、ひらけた平野であり、兵馬の進退は思いのままである。いま少勢をもって大軍を打ち破るには、このような土地は不適である。それにひきかえ、後方一里(4キロ)ばかりところにある樫井は、われらに絶好の決戦場である。よろしく蟻通明神の松林を前にして八丁畷を銃撃しつつ後退すべきである。前方に松林があれば、敵もわが軍の兵力がどの程度が知ることもできないし、かつ八丁畷の左右は深い泥地なので騎馬を並べて攻め寄せてくることもできまい。かくすればわが軍の勝利は疑いない」 (日本の戦史『大坂の役』)
かの団右衛門は、聞こゆる猛勇なれば、縦横無尽に切て廻り、敵あまた討ち取り、暫く猶予の所に、多湖助左衛門か放つ矢、団右衛門が額に中(あた)るよと見へしが、馬より下にどうと落(おつ)。
司馬遼太郎の短編小説「言い触らし団右衛門」の主人公、団右衛門は言う。
「さむらいとは、自分の命をモトデに名を売る稼業じゃ。名さえ売れれば、命のモトデがたとえ無(の)うなっても、存分にそろばんが合う」