遠里小野橋
1704年(宝永元年)に付け替えが実施され、村は二分されたと同時に、その中央を通っていた熊野街道も分断されたのである。
しかし、その二つの村は、摂津国住吉郡遠里小野村に変わりはなく、大和川を挟んで、此方も遠里小野村、彼方も遠里小野村であったのだ。
天の川でもないのだが、北と南に分離した遠里小野村の人たちは、年に一度の祭りや盆をどのように過ごしたのであろうと思う。
ところが、160年以上経った1871年(明治4年)、大和川以南を、和泉国大鳥郡遠里小野村として分離したのだ。
大和川に架かる公儀橋は、紀州街道の大和橋だけであったが、『堺大観』に、明治35年頃の仮橋の画像があったが、セットよりも危なっかしい橋であり、とても風雨に耐えられそうにない。
あの付け替えから、220年以上も経った1930年(昭和5年)に、やっと遠里小野橋が架橋されたのだ。
道の旅人は、この遠里小野と言う地名の、ビジュアル的な響きに、『遠野物語』(柳田國男)のような夢を抱いてしまう。 遠里小野の地名は、古代律令制度が成立するころから記録があり、万葉集では「とほさとをの(とおさとおの)」で詠まれている(三省堂『大辞林』)。
住吉の遠里小野(とおさとおの)の真榛(まはり)もち 摺れる衣の盛り過ぎゆく
(万葉集1156)
また、南北朝時代に室町幕府軍と楠木正行軍が衝突した「瓜生野(うりうの)の合戦」を起源とする説も存在する。
楠帯刀正行はかくと聞いて、「敵に足を留めさせて、住吉、天王寺へ城を構へられたら、神仏に向つて弓をひく事になる虞れがある。今の中に押寄せて先づ住吉の敵を追ひ払ひ、唯だ攻めに攻め立て、急に追つかけたならば、天王寺の敵は戦はないで引退(ひきしりぞ)くこと必定だ。」と、同じ二十六日の暁に五百余騎を率ゐて館を出で、先づ住吉の敵を追ひ払ふべく、石津(いしづ)の民家に火を放つて、瓜生野の北から押寄せた。 (太平記第二十五巻『住吉合戦の事』)
石津(いしづ)の民家に火を放つて、瓜生野の北から押寄せたとあるが、石津は堺市にあり、瓜生野の北とは平野区の喜連瓜破方面を指しているのであろうか?
すると、藤井寺に陣を構えていた楠正行は、二手に分かれて住吉の敵を追い払ったことになる。しかも、神仏に弓矢を向けないことがら察すると、まだ大和川が流れていなかったこの遠里小野で、合戦が始まったのではないだろうか?
かつて中世から近世にかけては、農村として栄えていたが、遠里小野遺跡の発掘調査から、古代は漁具などが大量に出土したことから、漁村であったと考えられている。
大和朝廷のころは現在よりも海岸線が東にあり、このあたりに墨江津とよばれた港が開かれていた。
また、難波京と和泉国府方面を結ぶ南海道と呼ばれた官道が通っていたことから、交通・物流の中継地であったとも考えられるのである。
「さぁ大和川の土手を登ろう」としたところに、農神社の碑があった。
その祭神として、蒼稲魂(ウカノミタマ)大神・埴山姫(ハニヤマヒメ)大神・野推(ノツチ)大神が列記されていた。
ウカノミタマの名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。
ハニヤマヒメは、「ハニ(埴)」とは粘土のことであり、土の神である。
ノツチは、『古事記』鹿屋野比売(カヤノヒメ)神の別名であり、萱(カヤ)や草で想像されるように、野の神である。
遠里小野は、古くから油の産地として知られ、油生産はハシバミの搾油から始まった。
古代から中世にかけては、朝廷が神事に用いた灯明は、すべて遠里小野で生産された油を用いたとされる。
また、日本で初めて菜種油を生産したことで知られ、菜種油は江戸時代から明治時代にかけて盛んに生産・販売された。
住吉大社が1800年前に御鎮座されたときから、遠里小野で自生していたハシバミの実から油を搾り、神事に使われていました。
中世になると、エゴマから搾油を行いましたが、エゴマ油発祥地の大山崎(京都)との間で紛争が多発しました。
江戸時代に、遠里小野の若野某が油分の多い菜種の搾油機「しめ木」を発明、これがわが国の菜種油製造の始まりです。
しかし江戸時代後期に、水車による大量生産が出現し、遠里小野の菜種油は衰退します。
そんな折、まさかあの正岡子規の句碑(松山市内城東区)に出くわすとは思っていなかった。
火や 鉦(かね)や
遠里小野(とおさとおの)の虫送 (子規)
「虫送」は、田の害虫を追い払う農村儀礼で、松明を焚き、鉦を鳴らし、虫を追い捨てる行事なのだ。
ついでながら、碑の裏面には、子規の「養痾雑記」(明治28年)の中の「故郷」と題する一文が記されている。
嬉しきも故郷なり 悲しきも故郷なり
悲しきにつけても 嬉しさは故郷なり 子規
子規がいつ遠里小野にやって来たのか知らないが、遠里小野橋の西側に阪堺線(あびこみちーやまとがわ)が走り、東側には南海高野線(あびこまえーあさかやま)、さらに東にJR阪和線(すぎもとちょうーあさか)が走っている。 子規の頃は、南海高野線が走り出した頃かどうか知らないが、『関西・参宮・南海篇』(1900年)の鉄道唱歌にも、遠里小野が歌われていた。
五九 かけじや袖とよみおきし その名高師(たかし)が浜の波
よする浜寺あとに見て ゆけば湊は早前に
六〇 堺の浜の風景に 旅の心もうばはれて
汽車のいづるも忘れたり 霞むはそれか淡路島
六一 段通刃物の名産に 心のこして又も来ん
沖に鯛つる花の春 磯に舟こぐ月の秋
六二 蘇鉄に名ある古寺の 話ききつつ大和川
渡ればあれに住吉の 松も灯籠も近づきぬ
六三 遠里小野(とおさとおの)の夕あらし ふくや安倍野の松かげに
顕家父子の社あり 忠死のあとは何方(いづかた)ぞ
六四 治まる御代の天下茶屋 さわがぬ波の難波駅
いさみて出づる旅人の 心はあとに残れども
おそらく、熊野街道の一部を、南海高野線が走ってると思われるのだが、いよいよ堺市の遠里小野に渡る前に、雲上地蔵尊へお参りをする。
というのも、明治の頃、堤防決壊によって失われた人命や、堤防修復に使われた墓石などの供養のため建立されたと言う。
台風や大雨などの自然災害で堤防が決壊したら、応急処置で墓地から墓石を運び出して積み上げ、洪水を防いでいたのです。
場合によっては、路傍の地蔵も使うこともあり、いざというときに土を入れられるよう、墓石にも穴をあけて堤防修復用に用意していた地域もあるそうです。
この雲上地蔵尊自体も、堤防修復に使われ、後の大和川改修工事の際に、川底から掘り出されて、祀られたと書かれています。
まさに洪水の恐ろしさを、身をもって体験した地蔵と言えるでしょう。
さらに、白龍大神を合わせて祀ることで、今なお埋没する幾多の無縁仏を弔い、冥福を祈るようになりました。
そして、堤防決壊の跡に石碑を建て、堤防の安泰を祈っているのです。
この大和川が氾濫すると、上町台地を除いて、住之江・住吉・東住吉、そして平野区の市内が、水浸しになることが容易に想像がつく。
現在では、淀川と共に大阪を形作っている生命線でもあるのだ。