《阿倍王子神社》 


阿倍野区付近の地図

 

この斎場(阿倍野墓地)に、NHK連続テレビ小説『あさが来た』に登場する、五代友厚のお墓がある。明治維新、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった、大阪経済を立て直すために、商工業の組織化・信用秩序の再構築を図ったのである。まさに、“近代大阪経済の父”と呼ばれる所以である。

また余談ではあるが、大政奉還後の京都の新政府では、大阪遷都の話が大勢を占めていたと云う。もし、江戸城の無血引き渡しがなかったら、“都構想”どころか、大阪が首都になっていたわけである。 


阿倍野墓地

 

それにしても、明治になってからの、大阪での五代の活躍は、すさまじいものがあった。造幣局(明治4年)をはじめ、大阪株式取引所(明治11年8月)や、大阪商法会議所(明治11年9月)など、今に至る礎を築いたのだ。

その初代会頭(大阪商工会議所の前身)に推されるも、今でいうところのファシリテーターとして、生みの子の育ち行く姿を見ていた。ー「大阪が日本の産業と、金融機関の中枢になるのもすぐだ」

 

最後に、友厚の経営哲学・理念を明確に表した発言を記しておく。

 

「会社が栄えるか滅びるか、評判をよくするか悪くするかは、その経営に携わるわれわれが、これを招き、これを迎えるものであることを心に銘じ、辛抱と努力を続けて、会社の組織をしっかりしたものにしなければなりません。

・・・会社に関する義務を果たすことはもちろん、会社外における普段の付き合いにあっても、お互い親密にし、友情をもって、互いに助け合わなければならないと、私は考える次第であります」

 

49歳の生涯にあって、大久保利通はもちろん、明治の元勲たちとも通じ、その行動力には、政商的な面もあったけれども、その権益は、商都に尽くすためのものであった。

そんな五代だから、財閥になるどころか、遺産もなく、高額な借金だけが遺されていたと云う。

 

この阿倍野墓地を南に向うと、“松虫通り”に出る。謡曲「松虫」に誘われて、この辺りをしばし散策する。

 秋の野に ひとまつ蟲の 聲(こえ)すなり われかと行きて いざとぶらはむ
                             (古今和歌集 秋歌上0202)

 阿倍野の松原で、松虫を聴きに来ていたふたりの男。死ぬときは一緒だと千切りあった仲。酒を酌み交わしていたが、あまりの松虫の美しい音に誘われて、そのひとりが野原に入りこんだ。なかなか戻ってこないので、もうひとりの男が捜しに行くと、“かの者草露(そうろ)に臥して空しくなる

松虫塚 謡曲には、どう言うわけか亡霊たちが現れる。
 ひとりの法師が、やはり友を弔うためにこの阿倍野原に来た。
 この友と言うのは、松虫に誘われたのではなく、戦によって臥したのである。
 享年二十一歳、その法師とは三十六歳もの年齢差があった。
 つまり、この若武者の父親と親交があり、その死を惜しむのに一方ならぬものがあった。
 この若武者こそ、“花将軍”と呼ばれた北畠顕家であった。
 そしてこの法師は、吉田兼好その人である。
 この阿倍野の地に、つれづれなる法師殿が隠棲していたとは驚きであるが、その場所というのが大阪の「聖天さん」である。 

 さてと、幽玄の世界にいつまでも浸ってるわけにはいかない。この松虫通を横断すると、阿倍野筋とわかれて、“もと熊野街道”に入る。
 ところで、阿倍野筋に沿ってそのまま行くと、北畠顕家の立派な墓所(北畠公園)に出会う。紀州街道の太陽橋を渡った方はご存知だと思うが、そこにも顕家の墓がある。
 この阿倍野筋の西側が、“もと熊野街道”である。そこに、晴明神社と王子神社が喧騒を閉ざすかのように静かに佇んでいる。
                                        阿倍王子神社晴明と狐像(晴明神社)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

“キツネの子”阿倍晴明は、世のいじめられっ子であった。しかし彼は、母を恨んだりしなかったし、むしろ、母を恋しくおもっていた。

       恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉

 “恋しくば 恋しくば”と、道の旅人はどうしてもこの熊野街道を駈け抜けようと思った。そしてまた、“恨みてなんだ?裏見てなんだ?”と呟いていた。

 顕家が物語るように、かつて阿倍野は戦火に見(まみ)えた。しかし、熊野権現のお蔭であろうか、第二王子社阿倍王子神社は、唯一今も現存する王子社であり、阿倍野区の氏神としてこの地域を守りつづけているのである。
 道の旅人にとっても、熊野街道を旅立つにあたり、この王子社を出発点とするのに一番相応しい地であると思われた。

 もと熊野街道を南へと急ぐと、チンチン電車(路面電車)に出くわす。その線路伝いを走り、北畠を越え、姫松へと至る。
 この姫松を西に進んだところに、ニンベンではなく、オオザトヘンの阿部野神社が鎮座する。その祭神が北畠親房と顕家親子である。

北畠顕家像(阿部野神社) さは去りながら此ままに、討たれん事の口惜しく、廿騎余りと諸共に、吉野へまでも落ちなんと、血路をさぐり求むれど、雲霞の如き賊軍に、蟻の通はん道も無く、延元三年五月廿ニ日、五月雨寒きその夕(ゆうべ)、阿倍野の露と消えにけり。
 八千八聲のほととぎす、血に鳴く聲に今も尚、つきぬ怨みを語るらん。
 嗚呼かんばしき父子の勲功、幾千歳の後までも、語り伝へて残さなむ。
 語り伝へて残さなむ。

        (三輪禎子『阿倍野の露』)

 道の旅人は、これからも戦火に見えた街を駆け抜けていくだろう。
 祈りとは、浮かばれぬ人たちへの想いであろうか?
 感謝とは、今生きていることへの喜びであろうか?
 常々思うことの中に、生きている人たちは、いつも亡くなった人々を背負ってるような気がする。


 そして現代の人々も、歴史と言う財産を背負って、この地球を維持し、未来へと継がなければならない。そんな宿業を背負うことによって、人間という傲慢さを戒めなくてはならないのだ。