《三国ヶ丘》
日本書紀の推古天皇21年(613年)の条に、「難波(なにわ)より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記された竹内街道は、「大道」のルートと重なることから、日本最古の官道と呼ばれています。
と云うわけで、1400年にあたる2013年、大道筋(紀州街道)の大小路に、ここを出発点とする、新しい碑(竹内街道)が建立された。
そこで、大小路通りを、開口神社参道を横切り、一路東へ向かい、南海本線堺駅の南側奥の踏切をわたって坂道を登っていく。ここに、西高野街道との分岐点であり道標が建っている。
道の旅人は今回、ここを竹内街道の出発点(堺市堺区榎元町)とし、章の始まりを三国が丘にした。と云うのも、摂津・河内・和泉の国を意識してのことである。そう考えると、此処が古代近畿圏の中心のような気がしてくる。
古来、堺は「五街道」の交錯する所であった。長尾街道、竹内街道、西高野街道、熊野街道、紀州街道と云う具合にね。
ところでこの“三国ヶ丘”が入口であるかのように、このあたりに御陵が多いというのも気になるところだ。反正(はんぜい)天皇《百舌鳥耳原北陵[堺市北三国が丘町]》をはじめ、父である仁徳天皇《百舌鳥野陵〔堺市大仙町〕》も居れば、兄である履中天皇《百舌烏耳原陵〔堺市石津ヶ丘町〕》も葬られている。
御陵が生前に決められたものかどうか知らないが、まるで生きつづけるかのように、見晴らしの良い、海の見える場所であったのであろう。
しかし、海が見えるということは、その陸を目指してやってくる人達もいるのだ。このお墓が、力を知らしめすものになるのか、単なる標的になるのかは、あとを継ぐ者たちにかかっているわけだ。
当時、海がどこまで迫っていたかはわからないが、この場所が、美しい国の“みくに”であっても不思議ではない。だからこそこの地に、人が集まってくる。自然が成り立たせた文化は、住み心地がよい。しかしそれを狙って三国の覇権争いにならなかったのであろうか?
三国ヶ丘といえば、今では堺市の一地域の総称であるが、狭義には大阪府堺市北東部に位置する旧堺市街地の東方に延びる洪積台地を指すわけである。洪積世のおける地盤隆起と海面降下、これら海退現象や川の侵食力回復などによって段丘は形成され、摂河泉丘陵の一部である。
(上方史蹟散策の会編『竹内街道』)
つまり、周辺だけに絞れば、摂津住吉郡・河内丹治比郡・和泉大鳥郡となり、この丘だけが、何処の国にも属さず、又方位の無い聖地なのだ。
それを裏付けるように、このエリアに方違(ほうちがい)神社があるんよ。たとえば平安時代には、自分が行こうとする方角が凶方位である場合に、一旦他の方角へ行ってから目的地へ向かう方違え(かたたがえ)が盛んに行われていた。
道の旅人も、方災(ほうさい)除けの払いをしてもらうために立ち寄ったけれど、この神社を東西に走っているのは、竹内街道と対をなし、北1.9km離れている長尾街道である。そしてこの神社の南側に、反正天皇が横たわっているのだ。
方違神社は、長尾街道の項に任せて、ここでは反正天皇についてだけ述べておく。
天皇は淡路島でお生まれになった。生まれながら歯が1本の骨のようであり、容姿うるわしかった。瑞井(みずのい)という井戸があった。その水を汲んで太子を洗われた。そのとき多遅(たじ)の花が井戸の中にあったので、よって太子の名とした。多遅の花は今の虎杖(いたどり)の花である。それで多遅比瑞歯別皇子(たじひのみずはわけのみこと)とたたえ申したのである。 (日本書紀『反正天皇』)
“天皇は淡路島でお生まれになった”-このことがよくわからない。父は仁徳天皇、母は磐之媛命 (いわのひめのみこと)である。
磐之媛命は葛城の人である。つまり、本籍地は大和なのに、淡路島で産むことに意味があるとしたらなんだろう?
淡路島で生まれ、流れてきたのは蛭子じゃないだろうか?そうすると、“歯はいのち”と言うけれど、その歯が、異形なものとしてうつる。
瑞歯別天皇(みずはわけのすめらみこと)は国風諡号で、わたし達は一般にあとから贈られた漢風諡号で呼んでいる。
この反正天皇の“反正”をどうとらえて良いのかわからなかった。調べてみると、『春秋公羊伝』に“撥乱反正”(はつらんはんせい)の四字熟語があったー乱を治めて平和の世にかえしたということである。
河内の丹比(たじひ)に都を造った。これを柴籬宮(しばかきのみや)という。このとき雨風、ときに正しく、五穀豊穣で人民は富み賑い、天下泰平であった。
(日本書紀『反正天皇』)
するとどうだろう?その醜い蛭子が、ふくよかな“えべっさん”に見えてくるではないか。しかも今や、この百舌鳥古墳群一帯を、世界文化遺産への登録を推進しているのである。
方違神社の南方に、行基(668~749)が天平十五年 (743)、聖武天皇の勅願によって開創し たといわれる向泉寺がありました。
ここで、この日本最初の大僧正である行基について述べなければならないけれど、その機会は別に譲るとして、その誕生の地が家原寺(堺市西区)であることだけ記しておく。(高石市の説もあり)
現在は、榎元町五丁に向泉寺の『閼伽井』 がのこされています。
行基は先ずこの井戸を掘り、この井戸に向 かって金堂その他の諸堂宇を建てられたそう です。
和泉国に向かって建てられたので、寺名が『向泉寺』と名づけられたそうですが、山号は、こ の地が摂・河・泉の三つの国境に位置していることから、『三国山遍照光院』と付けられて います。
なお、『閼伽井』というのは、仏に供える水、或いは身を清める水ともいわれています。現在はこの井戸も廃井になっていますが、昔は 水量も豊かで、近郷から沢山の人達がこの 水を求めて訪ねてきたと云う。
そして、この水を沸かして湯浴みすると、皮膚病などにも良く効くということで、評判 になったのだ。
この井戸の位置が竹内街道や西高野街道にも近いことからも、旅人などその利用者が多かったことが推察されます。 (堺商工会議所『地名あれこれ』)
道の旅人は、いよいよ竹内街道へ足を踏み入れることになるわけだが、日本最初の官道であることを思えば、どんな出会いが待ちうけているのかと期待でいっぱいである。飛鳥・奈良時代を通じてもっとも重要な道であったことの証が体験できればと思っているのだ。