白鳥陵(しらとりのみささぎ)

 

前章で説明しなかった峯ヶ塚古墳は、古市古墳郡の南西部にあって、「仁賢陵古墳」「清寧陵古墳」「白鳥陵古墳」などとともに、古墳時代後期(5世紀後半~6世紀後半)に造られた前方後円墳である。
 二重に濠をめぐらす古墳であり、古墳時代中期の「応神陵古墳」などに限られていることをみれば、大王墓級である。伝説によると、允恭天皇(374~453)の、悲恋の皇太子木梨軽皇子(453没)の墳墓(現宮内庁陵墓参考地:愛媛県(四国中央市にある東宮古墳)であると言われ、江戸時代には、日本武尊白鳥陵に比定されたりもした。

羽曳野市の市章は、羽曳野の『羽』の文字を象徴的に図案化したもので、その由来はもちろん、ヤマトタケルの白鳥伝説にある。

その説話の一つは、九州の熊襲建兄弟征伐である。小碓命(おうすのみこと)は、叔母倭比売命から給わった御衣御裳で女装して討ち、その日から倭建(ヤマトタケル)を名乗ることになる。

このあと、『古事記』では出雲を討ち、『日本書紀』では、吉備や難波の邪神を退治し、征西する。

次に東征に赴くヤマトタケルは、再び倭比売から草薙の剣と袋を賜ったのだが、実は『古事記』と『日本書紀』では、ヤマトタケルのイメージが随分と違う。

とりわけ古事記では、フロイト的な父と子の葛藤があるのだ。そこで、休む間もなく東征に向かわせる父に対し、「天皇の既に吾を死ねと思ふ所以(ゆえ)や!」と言うわけである。ここでクッションになったのが、倭姫なのだが、ヤマトタケルが、父よりも尊敬し憧れていたのは、人望が厚い、伯父の五十瓊敷入彦命(いにしきいりびこのみこと)だと思うんヨ。

ここで、軽羽迦(かるはか)神社に向かう。これが、この軽里の旧き地名【軽墓】の名残なのだ。

ところで、古事記の允恭天皇の項に、「木梨軽太子の御名代(みなしろ)として、軽部を定めた」とあるんよ。

しかし 道の旅人は、それ以前の、ヤマトタケルの墓が築かれたときからだと思うのだ。

そして、東国を平定したヤマトタケルが、なぜ伊吹山(滋賀県・岐阜県)の神に挑まなければならなかったのか分からないが、そこで敗れ、病に陥ってしまうのだ。

それでも、その弱ったカラダで大和を目指し、ついに能煩野(三重県亀山市)で亡くなる。そして白鳥となって、大和琴弾原(奈良県御所市)に入り、さらに、この古市に留まったのだ。しかし河内国志幾(古事記)が志紀のことならば、八尾市になるのだが・・・。ここで、道の旅人は、想像を駆けめぐらした。つまり、この河内の国に、王陵を造らざるを得なかったのは、外交戦略と灌漑事業の二本立てだったように思うのだ。

そこでもう一度、古市古墳群に目を向けると、ヤマトタケルの後に続いたのは、第14代仲哀・第15代応神・第19代允恭・第21代雄略・第22代清寧・第24代仁賢・第27代安閑なのである。

もちろん、第16・17・18代は、もっと玄関口の百舌鳥古墳群にあるのだから、都へ上る異国の人たちは、その威容を見て、表敬せずにはいられなかったであろう。

先ほども述べたように、ヤマトタケルは、親よりも伯父の生き方に共鳴していた(垂仁天皇から欲しいものをきかれ、伯父は“弓矢”をとり、父は“天皇”を求めた)。その伯父の宮が、菟砥川上宮(うとのかわかみのみや:大阪府泉南郡阪南町の菟砥川流域)にあった。

そこで、ちょっとした想像を巡らすと、近江国と美濃国の両国に位置する伊吹山で争いが起こり、尾張国からヤマトタケルがしゃしゃりでたんよ。ところが病に伏して、調停がうまくいかなかったわけだ。その後方支援に回っていたのが、伯父だったと言う解釈なんだけどね。

 

ところヤマトタケルは、能煩野(三重県亀山市)で亡くなり、白鳥となって琴弾原(奈良県御所市)まで飛び、次にこの古市にとどまったんよ。何故、三ヶ所に墓が必要であったのだろうか?

 それは、この三箇所が重要な地点で、人を集める必要があったからだ。古墳は土木事業である。河内の技術集団も動いたに違いない。
 亀山市は伊勢国にあるけど、そこは尾張国でもあり、近江国への道でもあった。御所市は、大和と紀伊・吉野を結ぶ地であり、古市は、大和から難波へ至る市であったのだ。

この章の終りに、どうしても寄りたかったのが、清寧天皇陵である。と云うのも、その御名の「白髪皇子(しらかみこ)」の通り、生来白髪であったため、父帝の雄略天皇は霊異を感じて皇太子にしたという。


 天皇、子無きことを恨み、乃(すなは)ち大伴室屋大連を諸国に遣はして、白髪部舎人(しらかべのとねり)・白髪部膳夫(かしはで)・白髪部靫負(ゆけひ)を置きたまふ。願はくは、遺跡(のこりのあと)を垂れて、後(のちのよ)に観しめむとねがひたまふなり。

                               (日本書紀『清寧天皇』)

清寧天皇の国風諡号は、白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)である。 
 自分には子がないから、自分の名をつけた役職を設けて事績としたのだ。

 今天下淸寧、靈物仍降。
              (後漢書『光武帝紀第一下』)

 今、天下淸寧にして、靈物仍(しきり)に降る。《訓読》

 こんなところで光武帝が出てくるとは思わなかったけれど、漢風諡号をつけた淡海三船は、この“淸寧”からとったのであろうか?
 するとこの時代、「世の中がよく治まって、安らかであった」ことを言っているわけだが、5年足らずの治世であった。

 ここで継承問題が生じたのだけれど、存命中にその問題も片付いたことを見れば、幼い時から髪が白かったというこの天皇は、靈物が降り積もったためかもしれない。

 

その人物の一端に触れてみると、清寧天皇2年、市辺押磐皇子の子である億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見したとの情報を得、勅使を立てて明石に迎えさせる。翌年2王を宮中に迎え入れ、億計王を東宮に、弘計王を皇子とした。


 道の旅人は、この清寧天皇が、父雄略天皇のことをどのように考えていたのか知りたくなった。親の罪を背負いこむように、“自分に子孫を残さない”という決意が感じられてならない。