野中寺
溜め池の数は兵庫県が全国一であるが、溜め池の密度(溜め池数/km²)から見ると、大阪府がいちばん高い。
羽曳野市“野”の往時を省みるに、我々の先祖の農民は過去幾百年幾多の苦難と貧困に耐え凌ぎ、農業の基盤となる用水池の水利管理を、子々孫々に伝えられてきましたが、時代の変遷に伴い、急速な住宅都市化の波に乗って野一○ニ番地通称“今池”を売却するに至りました。
往時野々上の先祖が砕身の労苦に堪え、幾歳月を凌ぎ開拓された農地並びにため池を利用し、子孫之を耕作し久しく生活の基緒としてきたが、時勢の変遷に伴い若山池地区は全域住宅地に化し、“若山池”は自然不要となる。依って全池を住宅会社に売却するに至る。
上印池は、当市はびきの四丁目に所在し、稲作の水不足に悩む野々上部落に当時の所有者から寄付を受け、昭和二十二年その所有権を個人名義にて登記し、雨水灌漑用ため池として重要な役割を果たしてきたが、時代の趨勢により此の池も不要となるに至り、“上印池”売却委員会が発足し、地積更正等並々ならぬ努力によって市開発公社等に売却した。
羽曳野市に入ると、“池の碑”が建っている。町は変わるものであり、都市化していくものだが、このまま“池のある風景”は失われていくのであろうか?
池には、子どもを抱えている親にとって、 “危ない”というイメージが強いけれど、“癒されている”という心の原風景みたいなものも、一方ではある。
これからも池が、都会の基盤になることはないだろうが、今でも“河内”と呼ばれている国において、顔をあげれば、いつでも里山の風景が飛びこんでくる。
わたし達もご先祖のように池に尽くすことができたら、池もまた、必ずやわたし達に応えてくれるだろう。
池は池だけであるより、池の周囲の空き地、あるいは緑地と一緒になって活きてくる場合もあり、池を考えるとき、池の周囲の環境と常に一体で考えていきたいと思う。
(『関西の池紀行』より 西本椰枝氏・旅行作家)
東除川に“伊勢橋”が架かっている。この橋が、伊勢詣での道と通じているのだろうか?
また、このあたりは、南北朝中期に足利義詮の河内(楠木氏)攻めの時、伊賀出身の部隊が暫時駐屯したことにより、“伊賀”の地名が残されている。
河内や和泉は全国でも1,2を争うため池分布地帯ですが、江戸時代にこれらのため池を築造したり、改修したりする際に活躍した“黒鍬(くろくわ)”と呼ばれる土木技術者がいました。彼らは尾張出身者ではあるが・・・。
(『関西の池紀行』より 市川秀之「オワリ衆の伝承を追って」)
古来より、河内の国には渡来人達が住み着き、優れた土木技術集団が居たことを知れば、黒鍬と呼ばれた人達は、移住させられた国から、この地に戻ってきたのではないのか?と思ったりする。
旧石器時代には石器の材料であるサヌカイトを運ぶ「石の道」、飛鳥・奈良時代ではシルクロードの終着点として「文化の道」「外交の道」、平安・鎌倉・室町時代では、聖徳太子の教えを伝える「信仰の道」としてなど、竹内街道は歴史の表舞台で重要な役割を果たしてきました。
高灯籠は、「雅のまち はびきの」の創生を願い、羽曳野市白鳥在住の西川榮吉様が寄贈されました。
(羽曳野市『歴史街道』)
街道筋にあるこの灯篭を、北に折れれば野中寺である。
南河内郡太子町の叡福寺(えいふくじ)を「上の太子」、八尾市の大聖将軍寺(たいせいしょうぐんじ)を「下の太子」と呼ぶのに対し、この野中寺は「中の太子」と呼ばれているんよ。
この地に住んでいた百済からの渡来人の子孫船史(ふなのふひと)、後の船連(ふなのむらじ)が氏寺として建立したものである。
しかし寺伝では聖徳太子が守屋討伐の時、この地に休憩になり、乱後、蘇我馬子に命じ、学問寺として造営されたものとしている。 (松田太郎『南河内』)
野中寺には朝鮮石人像があったり、天王寺屋の墓のそばには娘お染と丁稚久松の墓(十五回忌に建立)があるが、中の太子と呼ばれるわりには太子の印象が薄い。
むしろ、この灯篭を南に進むと、来目皇子の御陵があり、そちらの方に興味が湧いてくる。もちろん、お墓に興味があるのではなく、その“死”に対してである。
推古十年(602年)の春如月の己酉(つちのとのとり)の朔(ついたちのひ)に、來目皇子をもて新羅を撃つ(第2次新羅征討計画)將軍(いくさのきみ)とす。諸の神部(かむとものを)及び國造(くにのみやつこ)・伴造(ともんみやつこ)等、并(あはせ)て軍衆(いくさ)二萬(ふたよろずあまり)五千人(いつちたりのひと)を授く。
夏四月の戊申(つちのえさる)の朔に、将軍來目皇子、筑紫に到ります。乃(すなは)ち進みて嶋郡(しまのこほり)に屯(いは)みて、船舶(つむ)を聚(あつ)めて軍の粮(かて)を運ぶ。
六月(みなづき)の丁未(ひのとのひつじ)の朔己酉に、大伴連齧(くひ)・坂本臣糠手(あらて)、共に百済より至(まういた)る。是の時に、來目皇子、病に臥して征討つことを果たさず。 (日本書紀『推古天皇』)
推古十一年春二月四日、来目皇子(太子と同父母の弟)は筑紫で薨去した。このあと、来目皇子の兄、当摩(たぎま)皇子(異母)が新羅を討つことになった(第3次新羅征討計画)。しかし、付き従っていた妻が明石で薨じて、軍を引き返すことになったのである。
ふと、道の旅人は疑問に思った。このとき二十八歳であった皇太子のことである。
まるで集団的自衛権を行使するかのように、任那を救うため、新羅を討つことを、太子は許容したのであろうか?
その将軍に、太子の兄弟たちが赴き、新羅征討がとん挫してしまうのだ。
その年の12月、冠位十二階が制定され推古十二年春、はじめて冠位を諸臣に賜り、さらに十七条憲法を発表された。ここに聖徳太子の威光が全面に打ち出されたのだ。
征討が中止になったかもしれないが、高麗と百済が任那を救うために新羅を制圧していた。
来目皇子の死は聖徳太子に自立を促したのではないだろうか?当摩皇子の妻の死によって、“命は狙われたものである”と確信したのに違いないのだ。この事件によって太子は、仏教に学ぶだけでなく、政治と闘う必要をつよく感じていたー太子三十歳前後・馬子五十歳前後。
命あるものだけがメッセージを遺すのではない。“池の碑”もまた、先祖たちへの想いと共に、遺しておきたい、つないでいきたいと思ったメッセージである。わたし達は、そのメッセージを何とか活かしたいと思う。
道の旅人は、今回もまた教えられた。もっともっと学ばねばならないと思う。メッセージを受けとめるだけの能力を、身につけるために・・・。
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