金岡神社

大泉公園付近の地図

 神社の祭礼に、神輿が本宮から渡御して仮にしばらくとどまる所を“お旅所”という。しかし道の旅人にとって、“お旅所”というその響きは、神様が旅立ちをなされるところで、その近くまで海があったのかなぁと言う思いに駆られる。

金岡神社のお旅所 竹内街道を金田から西の方へ進みますと、地下鉄御堂筋線の上をとおる常盤・浜寺線に出会ったところに大きなクスノキが立っています。 
 ここが金岡神社の頓宮で、『西の宮』と白い鳥居に扁額があがっています。秋祭りのとき、金岡神社の神霊が渡御した“お旅所”ですが、むかしはお伊勢まいりの時に坂迎えをした所でもあったそうです。

(堺商工会議所『地名あれこれ』)

 随分と内陸にあるので、さすがにこの地まで海が広がっていたんだとは思わないけど、それなら川はどうじゃ?ということになる。何処を見渡しても海につながる川は見当たらない。

 

しかし、南から北方向に西除川(大泉緑地の東端)・光竜寺川(大泉緑地の西端)・狭間川(西除川支流)が流れ、最終的に区の北を流れている大和川に注ぎ込んでいる。つまり、海に出るにはかけ離れているのだ。但し、西区を流れている石津川には、蛭子伝説がある。
 鎮座している神様が、神輿に揺られて、町の様子を見ながら、平穏無事であることに安堵しているだけであろうか?
 

ただ、このあたりは池が多い。池のほとんどは溜め池であるから、それは暮らしにおいて大きな意味を持っていたと思う。そこに神様がまつられても良いわけだ。また、古来から神様は、いろんな所に移り住んだりしているのだから・・・。
 
ところで金岡神社は、仁和年間(885年ー889年)に底筒男命、中筒男命、表筒男命を祀ったことにより創建されたと伝えられている。この三神が祀られていたら、やっぱり海に出たくなるよね。

それはそれとして、他には素盞嗚尊(スサノオノミコト)・大山昨命(オオヤマクイノミコト)・巨勢金岡(こせかなおか)が祭神である。

そして、ここで取り上げるのが、神社に祭られた金岡のことである。しかし、生没年未詳なんだよなぁ。ただ、金岡は平安時代前期の宮廷画家であったことは確かで、宇多天皇(867~931)や藤原基経(836~891)といった権力者の恩顧を得て活躍したんよ。と云うわけで、当時の知識人、菅原道真(845~903)や紀長谷雄(845~912)といった人たちとも親交を結んでるのだ。そこまでの人が何故京から離れて、この地に・・・。


 金岡神社 この金岡という人は、絵所長者といって絵の仕事をする、役所でもっとも重きをなした人で、御所や有名な社寺に絵筆をふるったそうです。
 むかし、金田(今の金岡町)のあたりに、河内画師(かわちえし)と呼ばれる人たちが住み、奈良の大仏殿に絵を描いたり、彩色をしたりして活躍をしていました。
 と云うのも、中国から伝来した絵を、日本風の絵に描いていくために、河内絵師たちは努力したそうですが、巨勢朝臣金岡は更に、その中から独創的な絵を考案してかきはじめ、有名になったそうです。

堺商工会議所『地名あれこれ』)
 

 金岡が答えるには、『実物の虎を百日間あまり観察しておりましたが、怒り狂った虎の魂も一緒に絵絹の中に写し取ってしまいました。そこでわざと眼が入れてありません。・・・虎が絹から脱け出して人に危害を加えることになったらと心配して、わざと瞳は描きませんでした。もしわたしの言うことが正しいとすれば、本物の虎は魂が抜けて、近いうちに死ぬことになりましょう』                             (滝沢馬琴『南総里見八犬伝』)
 
ところで巨勢氏といえば、古代豪族であり、大臣を出した氏族でもあるんよ。その本拠地は大和国の高市郡と、葛上郡(かつじょうぐん)の境界に近い、御所市古瀬の地(高市郡巨勢郷)と推定されているんだ。その豪族が、どのような経緯で絵師になったのかはわからない。しかも、京から離れてこの地に・・・
 
 その御所(仁和寺の御室)に、金岡筆をふるひて絵かける中に、ことに勝れたる馬形なん侍るなる。その馬夜々はなれて近辺の田を食らひけり。なにもののすると知れる者なくて過ぎ侍りけるほどに、件の馬の足に土つきてぬれぬれとある事、たびたびにおよびける時、人々あやしみて、この馬のしわざにやとて、壁にかきたるに、馬の目をほりくじりてけり。それより眼なくなりて、田を食らふ事とどまりにけり。(橘成季『古今著聞集』)

旧名東御坊町にある金岡淵 その御室に居住していたのは宇多法皇である。
 その金岡が、筆を洗ったという金岡淵という地名が今も当地に残る(神社東方約300メートルに金岡淵即ち金岡筆洗いの池というのがある)その業績をたたえ、金岡も祭神として一条天皇(986~1011)のときに祭られたのだ。5月には「画神祭」が催される。
 “人が神になる”ということが、民俗学的にどのようなものなのかわからないが、おなじ時代にもうひとり“神”になった人間がいるーその人物こそ、菅原道真である。
 金岡は絵師として崇拝され、道真は怨霊から学問の神様になった。

 

ところが、この『金岡』に狂言があった。

絵師の金岡が狂気して洛外をさまよっているので、心配した妻が理由を問うと、御殿へ絵を描きに行ったときに出会った、美しい女中の面影が忘れられないのだと語る。妻は、女の美しいさは化粧次第なのだから、私の顔を得意の絵筆で絵どってみよという。金岡はさっそく絵筆をとるが、地面(ぢづら)の悪い妻の顔が、想い人に似るはずがない。とうとう金岡はあきらめ、絵筆を放り出して妻を突き倒し、怒った妻に追いかけられる。

 

京都では、巨勢家は永きに渡り本能寺の檀家であり、本能寺の変の際には歴代の巨勢家の墓、家系図ともに戦火の犠牲になった。 現在でも移転した本能寺(京都市中京区)の境内に、巨勢家の墓が現存しているのだ。しかしこの堺の地では、巨勢金岡だけは、神として祀られているわけである。

  この金岡の地を抜けると、大阪都市緑化計画として緑豊かな4大公園(服部・久宝寺・鶴見・大泉)の1つである大泉緑地へ出る。

広大な敷地(甲子園球場の23倍)で、しかも芝生・グラウンド部分が多いことや、幹線道路沿いの立地などから、防災計画上は約17万人の広域避難場所となっているだけでなく、後方支援活動拠点の位置づけもされているんよ。

 これからの道を駆け抜ける旅人は、このことを踏まえてテーマを持つことにしたー“市(まち)は人を守れるか、道は人を助けるか”