紀州街道     

                                              

紀州街道とは、かつて大坂と和歌山とを結んでいた街道である。

その起点は、高麗橋(中央区)あるいは日本橋(中央区)とされているけれど、ここでは住吉大社とする。

 

と言うのも、住吉大社は海の神様を祀り、古来から航海の安全を祈願し、シルクロードの玄関口とも考えられるからだ。

もちろん陸路を走行するのであるけれど、かつての遣隋使や遣唐使のように、旅の安全を願って旅立つには相応しい。

 

今や海は遠く離れてしまったけれど、白砂青松の風光明媚な場所として知られ『源氏物語』の舞台にもなっている。

また『一寸法師』を授かったのも、この住吉神のご神託であり、そして京へ上ったのも、この住吉津からである。

 

紀州街道こぼれ話

土佐国に国司として赴任していた貫之が、その任期を終えて京へ帰る一行の55日間の旅路とおぼしき話を、日記風に綴った作品が『土佐日記』である。

つまり、泉南からまさに海の道を北上していく船旅とは逆に、道の旅人は、陸の道を駆けて行くのである。

 

住吉大社

“住吉の三神”とは別に、第四本宮:息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと)が祀られている。すなわち、現人神であり、応神天皇を産みながらも三韓征伐を指揮した神功皇后である。その帰途に苦難に遭い、武内宿禰は皇子を抱いて紀伊水門へ、皇后は天照大神の教えに従い、この地に和魂を置いたのだ。

あられ松原

『古事記』『日本書紀』『万葉集』など古代の文章や和歌ではこの地は墨江・住吉・清江などと記され、いずれも「すみのえ」と読ませていた。室町時代末期には紀州街道が主要街道となり、安立町が街道筋として発達することになった。その安立商店街のアーケードには、“一寸法師の街”の旗がはためく。

大和橋

大和橋は、大和川の開削と共に宝永元年、紀州街道が川を渡るところに架けられた公儀橋であった。住吉大社の大祓の祭では、神遷しをした神輿をかつぎ、数百人が持つ炬火の火は、西宮を始め兵庫、明石から泉州海岸まで見ることができ、いつかこの「住吉の火替」を見たいものである。

顕家の菩提

石津太神社(いわつたじんじゃ)とは別に、堺区には石津神社(いしづじんじゃ)がある。両社とも、「日本最古の戎宮」を称しているのだが、恐らくどちらかが、御旅所であったように思える。いずれその両社の道を記したいものだ。あと、太陽橋に立って、日の出と日の入りを見たいと思うのだ。

浜寺公園

この時ばかりは、大久保利通の功績を認めざるを得ない。そしてこの松林を歩きながら、やはり、登美子と晶子のことに想いを馳せたい。もう一つ付け加えるなら、日露戦争におけるロシア兵俘虜収容所の、ロシア兵の霊を鎮める銅像と、小泉総理大臣とプーチン大統領の書名が入った石碑が建っている。

高師浜

伽羅国については、あと一歩の踏み込みが足らなくて心残りである。それともう一つ、行基の生家は家原寺(堺市西区)なんだけれど、この地の匠会館(高師浜3丁目)付近で生まれた説があり、「行基生誕の地」の石碑には、大工集団のことも記されているのだが、それに言及できなかったことだ。

助松本陣

和泉国の国府の外港(国津)であったことから、『泉大津市』と名付けられた。ただこの和泉の国は、ここ泉大津市と和泉市はもちろんのこと、泉南・泉北を含む機内一の国であった。ところで助松本陣で、思いもよらず片桐且元に出会ったけれど、ふたたび西国街道で語ることになろう。

楯並橋

毎年のことだけど、8月13日のお盆に、墓店(はかみせ)が出ていたのには驚いたよ。と云うのも、この忠岡では、夏の厳しい日差しを避け、夕刻から夜間にかけて、家族そろって墓参りする習慣があったんだ。その忠岡墓地までの参道(約500m)の両側には、露店がびっしり並んでいるんよ。

蛸地蔵

泉州の秋(9・10月)は、祭り一色になるのだが、“だんじり”と云えば、やはり岸和田のインパクトが強い。そのだんじりの町で、『カーネーション』のロケ道を辿っていくと、日本で唯一本物と云われている、明智光秀の肖像画があると云う本徳寺(事前予約必要)に出くわしたのだが・・・。

二色の浜

2020年、五輪の開催地が、TOKYOに決まったんだけど、1960年代のこの地に、魔女がいたんよ。それが東京五輪(1964年)で金メダルを獲った、日紡貝塚女子バレーボールチームの“東洋の魔女”なんだ。つまり、此処を本拠地とした彼女らを称える意味もあってか、市ではバレーボールのまちを推進しているのだ。

りんくうタウン

佐野漁港で水揚げされた新鮮な魚介類が、毎朝、すぐそばので販売されており、堺市や和泉市、そして河内長野市、さらに和歌山県紀の川市など、遠方から買いに訪れる一般客もいる。また昼網にあわせて行われる、午後2時30分からのセリも人気が高いんだよなぁ。

愛らんどハウス

大阪湾に面した風光明媚な地であったことは確かなようだが、その痕跡を見つけるのは難しい。しかし、漢詩『吉見里』には“桃源”とあるのだ。ところで、この作者を東涯としているのだが、いっぽうでは、白石の名も挙がり、さらに、室鳩巣の漢詩と云う説もあり、未だ確認できずにいるけれど・・・。

男水門

市西部の、男里にある男神社(おのじんじゃ)の元宮(浜宮)の旧蹟は、日本神話の神武東征において、五瀬命が雄叫びをした雄水門(おのみなと)の比定地なのだが、古代の地として、重要な意味を持っていたような気がするのだ。あたかも、夕陽のロケーションが美しい、ビーチは続いてはいるのだが・・・。

《 鳥取の庄

この地が、どう言うわけか、十一代垂仁天皇と深いかかわりを持っている。その一つが、紀州街道から離れているけれど、五十瓊敷命の宮があったことである。彼の事績によれば、河内国に派遣され、高石池や茅渟(ちぬ)池を始め多くの池溝を開き。同様に広く諸国をまわり、農業を盛んにして、民から厚く崇敬されたと云うのだ。

みさき公園

大阪湾に面して対岸に淡路島を望み、古くから紀伊国や淡路国・四国へ渡る南海道の交通の要衝であり、吹飯(ふけひ)の浦でも源平合戦があった。しかし驚くべきことは、この地に宇度墓古墳(うどはかこふん)があり、それが五十瓊敷入彦命墳墓であるということだ。 どうしても、この先を知りたくなるよなぁ。