二色の浜
物部守屋大連(?~587)の近侍の捕鳥部萬(ととりべのよろず)は、百人を率いて難波の守屋の宅を守った。しかし、大連は矢に射ぬかれた。名だたる部将である萬ではあったが、ここで死ぬわけにはいかなかった。物部氏の本拠は河内国である。その河内の国から茅渟県(ちぬのあがた)の有真香邑(ありまかのむら)の家族の住む地に戻った。
『日本書紀:崇峻天皇』
どうやら、この有真香邑が、現在の久保を含む津田川中流域一帯(岸和田・貝塚)と推定されているようなのだ。ところがその墳墓となると、別の地に現存していた。
いきなり、『日本書紀』の条(くだり)を紹介したけれど、津田川(岸見橋)を渡ったところに、石碑が建っている。
そこに、“忠臣捕鳥部萬墓幷(ならびに)犬塚 是ヨリ三十丁”と彫られているのだ。
つまりこの川を、三十丁(3キロ以上)さかのぼったところにあると言うのだが、その川沿いにはなく、岸和田市域の土生より、さらに東へ進路をとり、土生神社を尻目に過ぎていく。
つまり39号線の、神須屋・真上・葛城の町区を駆けのぼり、そこで八田(はつた)まで行くと、矢代寸(やしろぎ)神社に出会うのだ。
ここから、天神山の大山大塚遺跡公園に向かうのである。
道の旅人としてはこの道標を、紀州街道沿いではなく、せめて熊野街道の土生町に置いてほしいと思うのだが、建立された1871年(明治4年)当時に遡れば、それだけの経緯があったのかもしれない。
このとき聖徳太子(574~622)は13歳で参戦している。ここに一つの物語を想像してしまう。
と云うのが、太子と、物部の名立たる武将であったであろう捕鳥部との接点である。この“捕鳥部”とは、鳥を捕捉(ほそく)する仕事を意味している。ひょっとしたらその妙技を、御前で披露していたかもしれないのだ。しかも、彼が飼っていた白犬とともに・・・。
負傷し、憔悴しきった萬の、最後の場面は、地に伏して、呼びかけて云う。
「萬は天皇の御楯(みたて)として、その勇をあらわそうとしたが、聞いて頂けず、かえってこの窮地に追い込まれてしまった。共に語るに足る人は来い。自分を殺そうとするのか捕らえようとするのか聞きたい」と。
兵士らは競い合って萬を射た。萬は即座に飛んでくる矢を払い防ぎ、三十余人を殺した。また持っていた剣で、その弓を三段に切り砕き、その剣を押し曲げて渦中に投じた。別に小刀で、自ら頸を刺して果てた。
最後の報告を受けた朝廷は、「八つ切りにして、八つの国に串刺しにして晒せ!」と命じた。
このあと、萬が飼っていた白犬が登場するのだが、それはまた、熊野街道で岸和田市域を通過する折に述べたいと思う。
捕鳥部萬が、どちらの郷土に属するかは別にして、古代の武人と義犬の話は、共に語り継いでほしい物語である。
ところで貝塚には、正確な日本地図を描くために、必要な人物が誕生していたのだ。
剛立がその意志の弱さを叱ると岩橋善兵衛はこう答えたそうだ。
「高橋至時(よしとき)のような天才や間重富のような秀才と机を並べていると凡才のわたくし、どんどん気が滅入ってまいります。これからの星学はあの二人に委せておくだけで充分でしょう。むしろわたくしはあの二人の勉学を側面から援(たす)けようと思います。星学が進歩するためにはよい星眼鏡(天体望遠鏡)や遠眼鏡が要りましょう。ばしかし、本邦には良質の眼鏡が乏しく、しかも南蛮渡りの眼鏡は目玉が飛び出るほど高い。わたくしは二人のために安価で良質の眼鏡を作ってみようと存じます」
(井上ひさし『四千万歩の男』)
“四千万歩の男”とは、初めて実測による日本地図を作成した伊能忠敬のことである。十九歳年下の至時に学んだ忠敬だが、善兵衛の望遠鏡がなければなしえないことであった。
脇浜新町に、岩橋善兵衛(1756~1811)の生誕の碑がある。このあたりは、当時は浜辺であった。商人(魚屋)の子として育った善兵衛が、そこから星空を見上げれば、さぞかし“満天の星”だったであろう。
云わば、“空町”とも呼ばれた脇浜ではあるが、その業績を讃えるかのように、善兵衛ランドが貝塚中央線を東に上った、国道170号線を越えたところにある。水間鉄道では三ケ山口(みけやまぐち)下車である。そこでは昼の日中でも星を見ることができるのだ。
身近な花の名前すら覚えることもできないのに、手の届かない星の名前になると、憶えられるはずもない。でも、いつも星は輝いている。
そこでは、生まれたときの星空を知ることもできるし、百年後の星空を知ることもできる。もっと空のことを知れば、自分の星を見つけることだってできるかもしれない。
そろそろ“貝塚”ともお別れであるが、その地名の心地よさに、道の旅人はしばし縄文時代までさかのぼっていた。そこで忘れてはならないことを想いだしたのだ。
春の風物詩である潮干狩りである。その二色の浜の見晴らしには、帆船マストのモニュメントが、公園のシンボルとして建っている。そして沖合には、関西空港が見え、浜からの景観も素晴らしく、晴れた日には、明石海峡大橋までが一望できるんよ。
地名の由来は、砂浜の白色と松林の青色の二色からと云われている。
おそらく昔からの海岸線のあちこちで、白砂青松の松原が続いてたように思うんだ。
そうした海岸の美しさを、紀貫之が土佐日記の中で、「松の色は青く、磯の波は雪のごとくに白く、貝の色は蘇芳(すおう:赤紫色)にて・・・」と紹介しているのだが、それは岬町淡輪・阪南市箱作辺りである。
それにしても二色(にしき)は、『錦』につながる美しい地名だと、道の旅人は想うのだ。
今では市内から、年間約100万人の人々が訪れている二色の浜は、潮干狩り・海水浴・マリンスポーツ・バーベキューなどで賑わっている。