愛らんどハウス

 

 

佐野の廻船問屋食野一族の唐金梅所は詩文をよくし、「葛城峯」「淡路嶋」「茅渟海」「武庫山」「日根里」「興津浜(泉大津)」「吉見里」「佐野浦」を選んで全国の詩人に詩を求めている。これに応ずる者に、新井白石(1657~1725)・室鳩巣(1658~1734)・雨森芳州(1668~1755)・伊藤東涯(1670~1736)等一流の文人が含まれていた。その中でも、泉州を度々訪れている東涯の「吉見里」を掲げる。

        崇阜廻渓又一村      崇阜 渓を廻り 又一村あり
        知應有路入桃源      有路に應じ 桃源に入るを知る
        莎衣不被紅塵染      莎衣 紅塵を被らず染まり
        日課桑麻長子孫      日課の桑麻 子孫を長ずる

 田尻町の、『菓子司青木』という和菓子店の分家に『青木松風庵』がある。その社名の由来について、以下のような記事があった。

ご存じの通り田尻町は吉見と嘉祥寺、二つの村が一つになってできました。吉見ノ里は昔から風光明媚、白砂青松で有名なところで、新井白石も漢詩を詠い、和歌も残っています。
 

田尻スカイブリッジ 出てて見よ 吉見ノ里に秋の月
        沖吹き返す 松風の声

 月もよし 風も吉見の松風に
       昨日も今日も 遊び暮らして

 どちらにも“松風”という言葉がでてきま
 す。それを活かして名付けました。

 
漢詩や和歌では、この“吉見ノ里”に入る      と、心をいやしてくれる桃源郷だと詠っている。また歌では、松風が聞こえてくるという。

 

そして今、海に向かって見えるのは、田尻スカイブリッジの美しい姿であり、マーブルビーチなども続いている。
 この橋の見える場所には関西国際センターがあり、各国の幹部候補生達が、日本の文化を学びにきている。

古記に徴するに、この邊は蕭條たる一孤村で、『秋の寝覚』集に、藤原俊成の女(むすめ)の

           月をたによしみの里のあきのくれ
                        まつかせならてとふ人もなし

 
とあるに見ても、海鵆(うみちどり)波に咽ぶ冬の夜は、潮の音の閨に通ひて、いたづらに空吹く風の老松の梢に鳴る寂寥さを味わわれたのである。

                                                                          (『谷口房蔵翁伝』より)
                                                           

大正時代の薫りを今に残すしゃれた洋館が

ある。インテリアはいたるところにステン

ド グラスが使われたアール・ヌーボー様式。こ の館が“愛らんどハウス”である。 この館は、 田尻町出身の房蔵氏(1861~1929)の別 邸であった。彼は、明治から大正時代を通じ て関西繊維業界の中枢を担い、「綿の国から 生まれた綿の王」とまで称された人物である。
 大阪では、近世に綿花の栽培が盛んに行

わ れ、木綿がつくられていました。近代に入っ て、この綿花の産地に近い泉州地域に綿紡 績産業が発展します。田尻町にも多くの工場 が建てられ、飛躍的な発展を遂げました。

 この町にもうひとりの王がいた。“玉葱王 今井伊太郎”(1864~1941)である。タマネギといえば、カレーライス・すき焼きには欠かせないし、コロッケ・オムレツなどにも入っている。ましてウスターソースの材料の一つでもあるのだから、洋食屋にはなくてはならないものだ。

 明治19年(1886)6月のことであった。その日の四時ごろから夜行(荷車)で十里以上の道のりを大阪天満へ運び出すことにした。

『岸和田の町を過ぎるともう足元が暗くなり、浜寺の松並木に着くと夜は十一時にも近かった。朝早くから荷造りに疲れたうへに、車の後押と来てゐるので体は綿のやうになり石津川のあたりへ来ると、何だかうとうとして止めどがなくハッと思ふ途端小川の中に落ち込んでしまった。・・・大急ぎで駆けつけてまた車の後押しをして、堺市の大小路に着いたのが夜半を過ぎた一時頃町中はしんとして寝静まり唯犬の吠える闇の寂寞を破った。・・・そのうちに夜がだんだん白んで足許がたしかになり、向ふには天王寺の塔が曙光に浮かんで見え出した』

              (畑中加代子『玉葱王 今井伊太郎とその父佐次平』)

 車夫をひとり連れていたとは言え、200貫(750kg)の荷物である。道の旅人にとって気が遠くなる話しであり、体力の限界であったことは想像がつく。道は舗装されていないし、夜ともなれば、街灯の普及がどの程度だったかわからないが、ほとんど月明かりを頼りにするほかなかったであろう。やっと“吉見の駅”ができたのは、大正四年(1915)のことであった。