浜寺公園

 

浜寺公園内の地図

 

阪堺線なら、浜寺駅前駅で終点になるのだが、諏訪ノ森・浜寺(公園)・羽衣へとつづく、南海本線のこの三駅には、その駅名だけで物語を感じてしまう。

つまり、森・浜・羽衣のイメージを追いかけるだけで、 あたかも少女時代の童話の世界に踏み込みそうになるのだ。

 

しかし、此処"浜寺”に限ってその歴史をひもとくと、南北朝時代に臨済宗の三光国師(覚明)が、この地に大雄寺という大伽藍を建立し、吉野の日雄寺を「山の寺」と呼ぶのに対して、「浜の寺」と呼ばれていたことに由来すると言う。

この浜寺公園には、松の景色があり、今ではもちろん白砂青松(はくしゃせいしょう)と言うわけにはいかないけれど、この松が今日まで護られてきたのは賞賛に値する。

 

昔の浜寺では「三光松」「羽衣の松」(衣懸けの松)「白蛇の松」「千両松」「黄金の松」「酔仙の松」「蓬莱松」といった名松が数多くあったんよ。

ところが今では、「鳳凰の松」が現代の名松とされているけれど、枝振りを見ながら、自分で松の名付け親になるのもいいかもしれない。

江戸時代には、田安藩がこの地をおさめていましたが、この松林をつぶして田畑にしょうとしました。村の人々は、「松林をつぶすと、景色が悪くなるだけでなく、魚が集まらないので困る」と言って、お金を出し合い、この松林をまもることができたのです。 

                (別所やそじ・尼見清市共著 「むかしの堺」)

次に松林がピンチになったのは明治の時代で、明治維新によって職を失い生活に困窮した士族を救済するため明治5年に、その頃約3,000本あった松が1,000本まで切り倒されました。
たまたま明治6年、時の内務卿 大久保利通が浜寺に遊覧で訪れ、伐採の光景を目にし、歴史に名高い松林の荒廃を惜んで次のような和歌を詠みました。

     音に聞く高師濱のはま松も
          世のあだ波はのがれざりけり

 

もちろんこれは、百人一首の「音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の 濡れこそすれ」(紀伊)の本歌取りで、園内に『惜松碑』として句碑が建てられている。

なにはともあれ、明治の元勲と云われる実力者、大久保が詠んだこの和歌は世間の大きな話題となり、この和歌がきっかけとなって松の伐採はただちに中止。

 

その年の太政官布告により浜寺公園は、わが国初の公園の指定を受け、松林は保護が計られることとなった。

この一事においても、大久保の人となりがわかりそうなものだが、さらなるエピソードを言うと、予算の付かなかった公共事業に、私財まで投じていたのだ。

 

  龍頭の松(仮称) 鳳凰の松
千筋の松(仮称)緑雲の松(仮称)


この松林をふたりの少女が歩く。松風の音にまじって波の音もきこえてくる。そのとき、ふたりがどんな会話をしていたのかわからないが、万葉集や古今集などに歌われた高師の浜に思いを馳せていたかもしれない。なぜなら、もうまもなく歌会のはじまる寿命館(明治33年8月6日)に近づいていたのだ。
そのふたりとは、山川登美子と与謝野晶子である。そしてそこには晶子の歌碑がある。

        ふるさとの和泉の山をきわやかに
                   浮けし海より朝風ぞ吹く

 

しかし、晶子がこの浜寺で歌ったのはもっともっと激しいものであった。

もはやそれは、感激のあまり、おさまりのつかなかった鉄幹への恋心であったのかもしれない。

 

わが恋をみちびく星とゆびさして 君ささやけし浜寺の夕

 

ところが、そのときの登美子の歌が定かではないのだ。

ただ『恋衣』(明治38年)に、そのときの追憶歌がある。

 

その浜のゆふ松かぜをしのび泣く扇もつ子に秋問ひますな

 

その『秋』とは、父の意志で婚約せざるを得なかった登美子、そして晶子を加えた三人が、京都の永観堂に遊び、粟田山の辻野旅館で一泊したのだ。

おそらく、初めて出会う浜寺の会では恋心よりも、憧れが強く、晶子は身をまかすように強く出たけれど、登美子は身を控えて献(たてまつ)るような歌を遺したと思うのだが・・・。

 

髪ながき少女とうまれしろ百合に額(ぬか)は伏せつつ君をこそ思へ

 

そこで旅人が選んだのは、『恋衣』の最初の一首である。

この後の、ふたりの人生が窺えるとともに、この時代の多くの女性たちの運命(さだめ)とともに、“あわれ登美子”をおもわずにはいられなかった。

 

そして三日後の9日に、住吉大社の“蓮歌”となるのである。

かと言って、ここから引き返すわけにはいかず、高師浜(たかしのはま)へ・・・。