高師浜
この“伽羅橋”という地名をはじめて目にしたときは、古代の国を想像せずにはいられなかった。
つまり、「朝鮮半島の南端にあった大伽羅国(3世紀~6世紀中頃)が、百済と新羅に侵攻され、その大伽羅国の人々 がこの地にのがれて来て定住し、この橋を造った」と云うふうに・・・。 しかし、古代朝鮮半島の南端にあった国は加羅(から)である。
ところが、この加羅の国に、もう一つ併記されていたのが伽耶(かや)なのだ。 これと合わさって伽羅と表記され、『kara』と読んだら、この地がお伽の国になったという話はダメかな。
この木橋であった伽羅橋を、石橋に架け替えるため、当時の今在家村(羽衣)の吉次郎が発起人となって、慶応元年(1865年)10月に長さ11.1m、幅4.5mの花崗岩の石橋を完成させたんだ。
幕末の混乱した時代に、地域の交通整備に努力した人々の姿を示す、貴重な文化財が、昭和63年(1988年)芦田川改修工事により、市内高砂公園(高砂3丁目)に移転し、保存されているんよ。
もしこの地に、伽羅の人が住み、百済の人々が住みついたとしたら、何故この地に韓(から)の人が?というふうに考えてしまう。
この歌は1102年5月に催された「堀川院艶書合(けそうぶみあわせ)」で詠まれたそうです。「艶書合」というのは、貴族が恋の歌を女房に贈り、それを受けた女房たちが返歌をするという洒落た趣向の歌会です。
人知れぬ 思いありその 浦風に 波のよるこそ 言はまほしけれ
これに対する見事な返しに、若かった頃の紀伊のことを追いかけたくなるのを我慢して、旅人は次へと急いだけれど、この地については、もう少しだけ付け加えておかねばならない。
明治38年(1904)より始まった日露戦争では、多くの俘虜が日本に連行され、翌年1月 |