西国街道
呼称には多少の重複混同が生じているが、安土桃山時代頃までは、京都 - 西宮間はを山崎街道としているが、これを西国街道と呼ぶことにする。
西国街道のうち、特に6宿駅、山崎宿(大山崎町・島本町)・芥川宿(高槻市)・郡山宿(茨木市)・瀬川宿(箕面市)・昆陽宿(伊丹市)・西宮宿(西宮市)が設けられていた。
大阪府下を基本としているので、その経路は池田市・箕面市・茨木市・高槻市・三島郡島本町を駆け抜けようと思う。
近世に入り、政治の中心が江戸になると、京都と山陽道をつなぐ山崎通(西国街道)は東海道の付属街道として幕府が管轄しました。
とはいえ山崎と言えば、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀と、その敵討ちに向かった豊臣秀吉が戦った「山崎の合戦」で知られる場所だ。
どんな出会いになるか、あるいは遭遇すべき歴史に、心を躍らすようなワクワク感に、今から期待をしている。
《春団治の碑》
東北へ落ち延びるはずだと思っていた義経一行は、最初は九州を目指して、西国街道を下っていたことが裏付けられた。
初代春団治(1878-1934)については、舞台や映画で知っていたけれど、二代目春団治(1894-1953)の破天荒さもドラマになるってもんだ。
そして三代目(1930-2016)が、その碑を建立したのだが、2018年に四代目(1948-)が誕生した。
《萱野三平旧邸》
箕面市における、萱野三平のことは知っていたけれど、まさか、「カルピス」生みの親までがここの出身だとは気づかなかった。
「初恋の味」なんて、少しも知らなっかったけれど、耳の記憶はあるようだから、今では老いらくの恋の味てことになるのかなぁ?
なお『梁塵秘抄』には、、「聖の住所(すみか)は何処何処ぞ、箕面よ勝尾よ」と謡われており、聖たちの寺として箕面が全国的に著名であったことが知られる。
《椿の本陣》
この付近はかつてキリシタン大名として有名な高槻城主・高山右近の領地であった影響で、当時キリスト教信者となった領民が多く、キリスト教禁制後も隠れキリシタンとなり、山奥のこの地で信仰を密かに守りつづけた人々がいた。
何といっても、教科書に載っている「ザビエル像」が発見された唯一の隠れキリシタンの里があるのだ。
また、切腹二日前の大石良雄の書が掲げられているが、“音に名高い本陣の椿折って一枝欲しゅうござる・・・・”と子守唄に歌われいたという。
《白井河原合戦跡地》
織田信長の援助を得て義昭が15代将軍に就任すると、信長によって摂津国芥川山城、のちに高槻城を与えられたのが、和田惟正であり、足利幕臣として京都周辺の外交・政治に大きく関与しながら、織田氏家臣としても信長の政治や合戦に関わっていた。
惟政はキリスト教を自領内において手厚く保護したことが、『フロイス日本史』に詳細に書かれている。
なお、せっかくの茨木領域なので、西国街道沿いではないけれど、総持寺・茨木童子についても記してみた。
《芥川一里塚》
それにしても、街道沿いにある、二つの継体天皇陵の軍配ははっきりしてほしいけれど、太田茶臼山古墳(茨木市・宮内庁管理)より、今城塚古墳(高槻市・発掘調査可能)の方が優勢だとしても、門扉(もんぴ)を閉ざさないでほしいものだ。
高槻となれば、やはり高山右近を語らねばならないけれど、これも西國街道からは南に大分離れているが、高槻城周辺は公園もあり、市民の憩いになっていると思うけど、戦国時代の右近は伴天連追放令にあっても生き抜いた人なのだ。
《桜井駅》
『桜井の別れ』は、西国街道の桜井駅で、楠木正成・正行父子が訣別する逸話であるが、南北朝の和平に尽力した、三男正儀(まさのり)を想う。
鴨長明は、当時人々の評判になっていた女流歌人として、殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)と小侍従の両名を挙げている。
また、落ち着いた感じの大輔に比べ、小侍従は華やかで人目を驚かすような表現を得意とし、誰よりも返歌の名手であると評している。 芭蕉がリスペクトしていた宗鑑であるが、その辞世は俳諧ではなく、「宗鑑は いづくへと人の 問うならば ちとよう(ヨウ)がありて あの世へといへ」であり、一夜庵(香川県)で「ヨウ(できもの)」を患いそのために命を失ったという。