西高野街道

 

西高野街道は平安時代に、天皇・貴族を中心に盛んになった高野山詣の道として整備され、その後、高野聖(ひじり)の納骨をはじめ、庶民の参詣の道となりました。

また、江戸時代には堺の町人をはじめとした、米・酒・綿などの通商の幹線としてにぎわう全盛期をむかえ、堺と高野山との物資輸送の主要道ともなったんよ。

 

その起点が大小路(おおしょうじ)であり、紀州街道の大道筋との交点になっており、その付近は晴明辻とも呼ばれていた。

たしかに、西高野街道は、堺から高野山を目指すに違いないのだが、女人高野の碑が道すがらで見かける。

 

つまり、高野山は女人禁制の場所だったため、その主要な道には女人堂が建てられていた。

そして河内長野には、女人高野と呼ばれた金剛寺があり、整備された”あまの街道”から、金剛寺に向かうことができるのだ。

平安時代末期に高野山の僧・阿観(1136-1207)が住することにより、後白河上皇(1127-1192)と異母妹の八条院(1137-1211)の篤い帰依を受けたことから始まる。 

西高野街道こぼれ話

高野山を目指すこの参詣道には、女人堂までの一里(約3.9キロ)ごとに里程石が残してはいるが、必ずしも一里ではない。
 その十三本の里程石は、河内国茱萸木村(現:大阪狭山市)百姓・小左衛門(こざえもん)と五兵衛(ごへえ)の発起により、安政4年(1857)に建立された。

最初の「十三里石」は、南海・堺東駅から東に進んだ地蔵堂の脇にあり、「是より高野山女人堂江十三里」と刻まれている。

 

同じように彫られた『南大師遍照金剛』とは、弘法大師・大日如来に護られての巡礼、‟同行二人”意思表示なのだ。

なお、これらは全て『西高野街道に遊ぶ』(横山豊)の受け売りだが、‟地図の南北”についてのコメントも載せておく。

「日本の地図は古来より‟北から南”を見るように作られていた。これは‟北辰(北極星)は動かない”ことに由来する。多数の人間が集まって一枚の地図うぃお見る時その場の最上位者は北に座って南に広げられた地図を見る。したがって、地図は北から南を見るように最初から作られている」というのだ。

菅原神社・石田梅岩

京都府亀岡市の道の駅ガレリアかめおか内に石田梅岩記念施設「梅岩塾」が併設されているが、まさか菅原神社で、石田梅岩に対面するとは思わなかった。

徳川吉宗の時代、町人に道徳意識を与えることが急務とされ、石門心学がその任務に当たったという。

その思想は、神道・儒教・仏教の三教合一説を基盤としているが、その実践道徳の根本は、天地の心に帰することによって、その心を獲得し、私心をなくして無心となり、仁義を行うというものであり、その最も尊重するところは、正直の徳であるとされる。

石田梅岩門下の手島堵庵(とあん)が大成したことから当初「手島学」と呼ばれていたが、松平定信が手島の弟子・中沢道二(どうに)の道話を「心の学び」と言ったことから「心学」と呼ばれるようになった。

しかし、陽明学でも「心学」という用語を使うことから混同を避けるために「石門心学」と呼ばれたが、いつしか略されて「心学」が一般的呼称になった。  

百舌鳥八幡宮

この八幡宮の西側に御廟山古墳があり、その被葬者の候補に、宮内庁は応神天皇を挙げているのだ。

もちろん応神天皇陵は、百舌鳥古墳群ではなくて、古市古墳群の誉田(こんだ)御廟山古墳であることは承知しているが、世界遺産に登録された、百舌鳥・古市古墳群のスキャンダルになら負ければよいのだが・・・。

それは冗談として、ここでクローズアップしたいのは、そのさらに西側にある‟いたすけ古墳”のことである。

破壊から免れた古墳であったが、今なお闘いは続いており、竹林の繁茂により土砂が崩れる恐れがあることから、堺市では整備事業への寄付を呼びかけ、ふるさと納税も活用されている。 

関茶屋・陶荒田神社

今までは気にもしなかった大田田根子なのだが、実在した可能性のある、最初の天皇と呼ばれている崇神天皇と同じ世代だとすると、ひょっとしたら古代において、重要な人物かも知れないと思うようになった。

それも、奈良県桜井市にある三輪山の神である大物主神の子孫または子で、神(みわ)君(三輪氏、大三輪氏、大神氏)、鴨君(賀茂朝臣氏)の祖神とされているのだ。

その出身地が、『日本書紀』によると、茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえのむら)、すなわち和泉国大鳥郡陶器荘(現・堺市東南部の陶器山からその西方にかけて)で、この辺り、陶荒田神社(現・堺市中区)の付近ということになる。

岩室山観音寺

この地区にある、感応寺と法道寺の開基が法道仙人と伝えられており、6-7世紀頃、中国・朝鮮半島を経由して、日本へと渡ってきたとされている。

仙人が646(大化2)年に開いた摩耶山天上寺(神戸市灘区)の縁起書によれば、仙人は雲ではなく、普通に船で日本に来たという。

たどり着いた大阪で仏法を伝え広め、淀川河口の地名「伝法(でんぽう)」(大阪市此花区)の由来とされる。

同じころ、わが国には役行者(634-701)がおり、その伝説が重なってくるのだ。

あまの街道

古墳時代から平安時代まで利用された、「須恵器」の一大産地が陶器(とうき)山であったが、陶山(すえやま)の薪争い(859年)で衰退していった。

その後、陶器山丘陵の尾根道は、「金剛寺への参詣道」としてよみがえったが、泉北ニュータウンや狭山ニュータウンといった巨大開発で、失われていきました。

 

突如始まった陶器山の宅地造成に驚き、更なる自然破壊をくい止めたいと署名運動を展開 し、私有地を市に買い上げてもらった。残された貴重な自然を守り、次代に引き継ぐこと が我々の使命です。        (あまの街道と陶器山の自然を守る会

平成7年、10kmの天野街道の内、往時の面影が残る3.5kmを整備して『あまの街道』と名付けられました。 

天野山金剛寺

ここで八条院のことを知りたかったのだが、何の資料もなく、代わりに光厳(こうごん)天皇について知ることができた。

つまり、後醍醐天皇の失脚を受けて皇位に就いた光厳であったが、鎌倉幕府の滅亡により復権した後醍醐が、自身の廃位と光厳の即位を否定したため、歴代天皇126代(令和)の内には含まれていない。

ところが北朝にあっては、2代15年の間、治天(皇室の長)の座にあって院政を行なっており、生涯においても興味が尽きないのだ。

おわり坂

西高野街道は、天野街道との分岐点を南東に向かって進めば大阪狭山市に入り、下高野街道との合流点がおわり坂である。

その名の通り急な下り坂になるのだが、かつ狭山池の回収工事に来た‟尾張衆”に由来しているという。

ただその点だけで、狭山池について記しただけなのだが、この坂がヒルクライミングになって事の重要さに気付いたが、尾張衆がどのように関わったのかは今のところ資料が見つからない。 

大江時親邸跡

余りにも狭山池のことと、この大江時親のことにとらわれていて、間を飛ばしてしまったけれど、河内長野に入っての重要なポイントは、旧街道の錦坂を上りきった松林寺(しょうりんじ)である。

そしてこの奥河内にあって、時親のことはさておき、高向玄理がこの地の出身であり、国博士であった3度目の渡航で客死した謎を、いずれ調べたいものだ。

河内長野駅

駅周辺の歴史は古く、付近にある七差路の「七つ辻」は、車道における西高野街道と東高野街道が合流するかつてからの交通の要衝であり、当駅から三日市町駅にかけての高野街道は、宿場町としての歴史的な街並みなどが残っている。

国道170号(旧道、府道20号)・国道310号・国道371号(旧道)と市道が交差しており、「七つ辻」の名の通り7つの道路が集まっているのだが、この交差点には、さらに幅員1m未満の市道に加え、数メートルほど東寄りには長野商店街の西商栄通りがあり、これらを加えると実に9本の道路が集結していることになる。 

 

トトロ街道

トトロ街道と言う絵本のような、アニメの世界に誘われるような街道名に引き込まれ、廃線ロードを進んで、まずは美加の台の興禅寺(こうぜんじ)の池には、斑蓮(まだらはす)と呼ばれるハスがあり、これは創建当時に植えられたもので、現在では全国に数箇所しかない珍しい種類のものであり、池の周りには多数の羅漢像がある。

そして千早口で、下赤阪・上赤坂・千早城へと向かい、その計画は徒徒労に終わるにしても、千早赤阪村へはこの機会しかないので、とりあえず記すことにした。